"湯殿床下の女将日記" 第1話
平成1110の終わり。
形県のにあるさな温泉は、の気配をじ始めていた。
朝晩のえ込みはににくなり、畳の沿いに植えられた々は、赤や黄に染まった葉を静かに落としていた。
川沿いに並ぶ古い造旅館は、まるで代から取り残されたような姿でち並んでいた。
正代から続く建物もく、黒く艶のた柱や、いをねたの階段は、この温泉が歩んできた歴史そのものだった。
夕暮れになると、通りに並ぶガス灯がつずつ灯る。
い湯気が川面からちり、暗いのでがぼんやりと揺れる景は、まるで絵のの世界のようだった。
その温泉で、番古い歴史を持つ旅館があった。
名は「糸」。
4階建てのきな造旅館で、かつては方からくの客が訪れる名旅館としてられていた。
その宿を3代にわたって守ってきた女性がいた。
鍛原沢子。
48歳。
夫をくにくし、それから10、たった1で旅館を切り盛りしてきた女将だった。
柄な体だったが、姿勢はいつも真っすぐで、着物の着こなしも美しかった。
派な装いをすることはなく、いつも落ち着いたの着物にい割烹着をねていた。
宿の従業員たちは、そんな沢子を「昔ながらの女将さん」と呼んでいた。
沢子の朝は、誰よりもかった。
広告
まだ空が暗いうちに起き、廊を掃除する。
玄関をけ、客を迎える準備をする。
そして最に、湯殿の様子を確認する。
その連の流れは、働く従業員たちにとって、糸の朝をらせる計のようなものだった。
特に印象だったのは、廊に響く駄の音だった。
カラン、カラン。
静かな朝の旅館に響くその音を聞けば、誰もが「ああ、今も女将さんが起きた」と分かった。
しかし、その朝だけは違った。
いつまで待っても、その音が聞こえなかった。
「……おかしいですね」
台所で朝の準備をしていた居の久子は、噌汁の鍋をかき混ぜていたを止めた。
久子は糸に勤めて8になる。
沢子の活習慣は誰よりも理解していた。
毎朝6には必ず廊を歩く。
遅れることなど度もなかった。
「女将さん……?」
をじた久子は、掛けでを拭きながら廊へた。
しかし、そこには誰もいなかった。
囲炉裏にはまだが残っている。
のがさな窓から入り込み、暗い廊をく染めていた。
久子は女将の部へ向かった。
旅館の番奥。
沢子が使っていた部だった。
「女将さん、起きていらっしゃいますか?」
声をかける。
返事はない。
「もう6過ぎですよ」
もう度呼びかける。
それでも何も聞こえなかった。
久子はしためらった、静かに襖をけた。
広告
部のは、驚くほどっていた。
布団は綺麗に畳まれている。
机のには、いつも使っている化粧具が並んでいた。
。
さな鏡。
櫛。
どれも、まるでこれから沢子が戻ってきて使うかのように、いつもの所に置かれていた。
だが、本だけがいなかった。
「……女将さん?」
胸の奥に、嫌な覚が広がっていった。
久子は旅館を探した。
湯殿。
倉庫。
裏。
客。
しかし、どこにも沢子の姿はなかった。
玄関の駄箱を確認した、さらに違を覚えた。
沢子が普段履いている用の履が、そのまま残っていた。
掛けるなら、必ず履くはずのものだった。
「そんな……」
久子の顔から血の気が引いた。
沢子は、決して無断で旅館をれるようなではない。
所へくでも必ず誰かに伝える。
「し寄りいにってきますね」
「りいのところへ顔をしてきます」
そんな言を必ず残すだった。
何も言わずに消えるなど、8緒に働いた久子には考えられなかった。
久子は慌てての従業員を起こした。
み込みの板。
通いの従業員。
そして湯殿を担当する助。
皆が集まったが、誰も沢子の方をらなかった。
「昨の夜、何か変わったことはありませんでしたか?」
誰もが記憶を探った。
しかし、これといった異変はなかった。
そのの朝、温泉はいに包まれていた。
従業員たちは分けして周囲を探した。
川沿い。
旅館の裏。
隣の宿へ続く細い。
だが、はあまりにも濃く、数メートル先も見えない。
広告
おすすめ作品
-
完結第11話
消えた父子の23枚
2017年3月、奥多摩の山中で、元消防士の伊藤大輝と生後8か月の赤ん坊が跡形もなく姿を消した。 父子は遭難したのか。それとも、誰かから逃げていたのか。遺体も手がかりも見つからないまま、事件は6年の時を経て忘れられようとしていた。 しかし2023年、地質調査に訪れた大学生2人が、岩の隙間から古いデジタルカメラを発見する。そこに残されていたのは、赤ん坊を抱く父親の写真と、背後から近づく不審な人影だった。 さらに調査を進めるうち、2人は「伊藤ハルト」という名前を消され、「鈴木湊」として生きる青年にたどり着く。 彼は本当に、6年前に消えた赤ん坊なのか。 そして大輝が命をかけて守ろうとした“真実”とは何だったのか。 1台のカメラが、封じられた過去と、血よりも深い父の愛を静かに暴き出していく。ミステリー|真相1.6萬字5 3 -
完結第10話
21年目の誤公式
アメリカの名門大学を訪れた8歳の日本人少女・桜井ひなは、ロビーに掲示されていた有名な物理公式の前で、ふと足を止めた。 21年前から大学の象徴として飾られ、多くの教授や学生が見過ごしてきたその数式。だが、ひなには右下の一部だけが、どうしても「変な音」に聞こえた。 「ここ、間違っているかもしれません」 勇気を出して指摘した少女に返ってきたのは、困ったような笑顔と小さな笑い声だった。子どもだから、外国から来た見学者だから――誰も本気で耳を傾けようとはしなかった。 それでもひなは、亡き祖父から教わった“数字の音”を信じ、ホテルの小さな机で1枚の紙を書き上げる。 翌日、その紙が教授室へ届いた時、大学の空気は一変した。 21年間、誰も気づかなかった誤り。教授たちが凍りついた真実。そして、大人たちの思い込みを静かに揺さぶった少女の小さな声。 これは、笑われても自分の違和感を手放さなかった8歳の少女が、名門大学に残された“21年ぶりの真実”を動かす物語。真実|真相1.4萬字5 7 -
完結第10話
10年目のハザード
1999年10月、夜明け前の阪和自動車道に、1台のタクシーがハザードランプを点けたまま残されていた。 運転席は無人。車内に争った跡はなく、鍵も残されたまま。所有者は、大阪・堺で個人タクシーを営む藤村達夫だった。 警察が自宅を訪ねると、妻・安子と娘・真奈美の姿も消えていた。台所には冷めた味噌汁、まな板には切りかけのネギ。家族3人は、夕食の途中で突然この世から切り取られたように姿を消していた。 達夫が最後に乗せた客は誰だったのか。 そして、なぜ一家は財布も通帳も残したまま消えたのか。 10年後、取り壊しが決まった団地の室外機の裏から、1本の古いカセットテープが見つかる。 そこに残されていたのは、達夫が命がけで吹き込んだ、震える声だった――。ミステリー|行方不明1.5萬字5 145 -
完結第15話
土俵下の12年
昭和47年、東京・両国の相撲部屋から、期待の若手力士・林岳司が突然姿を消した。 能登の小さな漁村から上京し、家族の期待を背負って土俵に立っていた21歳の青年。部屋には荷物も手紙も残されたままで、まるで少し外へ出ただけのように、彼の生活だけがそこに残っていた。 両親は息子がどこかで生きていると信じ、12年間待ち続けた。 しかし昭和59年、故郷の古い土俵を解体した時、土の下から思いがけないものが見つかる。 東京で消えたはずの岳司は、なぜ故郷の土俵の下にいたのか。 稽古場で何が起き、誰が12年間も真実を隠し続けたのか。 若き力士の失踪は、故郷の土の中から静かに動き出す――。ミステリー|行方不明2.2萬字5 219 -
完結第9話
50年目の沈黙の部屋
2021年、福井県の山あいにある閉鎖病院で、壁に塗り込められた小さな部屋が発見された。 窓もなく、扉もなく、外から完全に塞がれたその空間に残されていたのは、1人の男の骨と、古い観察記録だった。 記録の日付は、1973年。 そこに書かれていたのは、吉川明という30歳の患者の名前だった。だが不思議なことに、彼は病院の閉鎖後も、家族からも行政からも、誰からも探されていなかった。 なぜ彼は、誰にも知られず壁の中に残されたのか。 そして、最後の記録に残された「生命の兆候なし」という一文の後、病院では何が行われたのか。 50年近く沈黙していた廃病院の壁が、今、ひとりの男の消された人生を語り始める。ミステリー|行方不明1.4萬字5 97 -
完結第13話
消えた娘の38分
2023年、幼稚園から帰る途中だった少女・美緒が、父親の車に乗ったまま姿を消した。 山道で事故が起き、父は記憶を失ったと証言。警察は周辺を捜索したが、美緒の姿も、当日持っていたバッグも見つからなかった。 それから1年後。 母・雪が、かつて家族で暮らしていた古いマンションを訪れた時、突然スマートフォンに通知が届く。 それは、美緒のバッグに入れていた位置追跡チップからの信号だった。 示された場所は、誰も想像していなかった寝室の床下。 そこから見つかったバッグ、消えていた上着、空になった金庫。そして、父親の車が事故前に立ち寄っていた“38分間”の空白。 事故だと思われていた少女の失踪は、家族の秘密と金の流れに隠された、まったく別の事件へと変わっていく。ミステリー|行方不明1.9萬字5 205 -
完結第11話
夫の顔と20年目の罪
8歳の事故で母と光を失った桜田はるかは、暗闇の中でピアノだけを支えに生きてきた。 父の死後、叔父に勧められるまま結婚した相手は、名門病院の跡取り息子・桜田真一。寡黙ながらも優しく、毎日花束を贈ってくれる夫を、はるかは心から信じていた。 そしてある日、20年待ち続けた角膜移植手術の順番が回ってくる。 初めて夫の顔を見られる――。 そう思って迎えた包帯を外す日。眩しい光の中で、はるかの前に立っていたのは、愛していたはずの夫とはまるで違う男だった。 「あなたは誰?」 病室に凍りつく空気。夫を名乗る男、黙り込む周囲、そして誰もが隠していた結婚の嘘。 やがてはるかは、20年前の事故と、ガーベラに隠された本当の意味へとたどり着いていく。人生逆転|夫婦|真相1.7萬字5 91 -
完結第9話
中卒社員の逆転邸宅
中卒というだけで副社長に見下され、追い出し部屋へ異動させられた真司。 かつて父の会社を救うため進学を諦め、20年以上エンジニアとして働いてきた彼だったが、新しく就任した副社長は学歴だけで人を判断し、低学歴の社員たちを次々と窓際部署へ追いやっていく。 それでも真司は、妻の出産を控え、家族を守るために耐え続けていた。 やがて無事に子どもが生まれ、職場へ復帰した真司に、副社長はさらに残酷な言葉を投げつける。 「低学歴、低収入の子供がどんな顔してるのか見てみたいな」 その瞬間、真司は静かに微笑んだ。 「いいですよ。今週の土曜日、うちに来てください」 冷やかし半分で自宅へやって来た副社長たち。だが、案内された先で彼らが目にしたのは、想像もしなかった豪邸と、リビングで待っていた“ある人物”だった。 中卒と笑われ続けた男が、家族と仲間を守るために仕掛けた静かな反撃とは――。ミステリー|因果応報|人生逆転1.3萬字5 138 -
完結第20話
湖底の五本柱
1999年2月、記録的な豪雪に閉ざされたダム建設地・鏡谷で、3人の男が忽然と姿を消した。 彼らが乗っていた黒いセダンは、エンジンをかけたまま雪原に残されていた。ドアは開き、所持品もそのまま。だが、車の周囲には人が降りた足跡が一つもなかった。 やがて龍鳴寺の床下から見つかった1台のカメラが、事件を思わぬ方向へ動かしていく。そこに写っていたのは、消えた3人と作業員たちが、吹雪の中で何かを巡って激しく対立する姿だった。 さらに、ダムに沈むはずだった村からは、古い拳銃、止まった懐中時計、血に染まった作業車、そして「五つの柱」という不気味な言葉が浮かび上がる。 これは単なる失踪ではなかった。 ダムの底へ沈められようとしていたのは、村の風景だけではない。30年前に隠された罪と、ひとりの老人が命をかけて仕掛けた復讐だった。 雪の中で消えた男たちは、どこへ行ったのか。 そして、水没した地下から響く時計の音は、何を告げていたのか――。ミステリー|行方不明|金銭問題3.0萬字5 138