"藤蔵は二度生きた" 第7話
2、勝郎は再び平田篤胤の気吹舎へ入り、およそ1学んだ。くの物に触れ、文字や学問をにつけたものの、そのは学者としてきるを選ばなかった。
野へ戻った勝郎は、父親と同じように農作業をい、目籠と呼ばれる籠を作る仕事に携わった。完成した籠を戸へ運び、売り買いをする暮らしを続けた。
かつて戸の話題となったも、になればので汗を流す1の男だった。田畑の状態を気にし、族の暮らしを支え、仕事のため戸とのをき来した。
程久保の藤蔵の族とも、完全に縁が切れたわけではなかった。勝郎にとって、おしづたちは世の族であり、現の父母とは異なる切なだった。
しかし、2つの族ので暮らすことはできなかった。勝郎は野の両親の子供として育ち、やがて自分のを歩いていった。
勝郎が語った世の記憶を、周囲の々がどのように受け止めたかは、それぞれ異なっていた。本当に藤蔵がまれ変わったのだと信じる者もいれば、たちの話を偶然聞いて覚えたのではないかと疑う者もいた。
それでも、勝郎本や族、程久保の々から直接話を聞いた者たちが記録を残したことで、来事は単なる噂として消えなかった。
広告
池田冠、伝郎、平田篤胤というの異なる物が、それぞれ聞き取った内容をき残していた。
勝郎は治の世を迎えるまできた。戸幕府が終わり、世のの仕組みがきく変わっていくでも、かつて世を語ったはで普通の活を続けた。
1869124、勝郎は55歳でその涯を終えた。藤蔵として6歳でくなった記憶を持つと語ったは、勝郎としては半世紀を超えるをきたのである。
勝郎のも、残された記録は々のによって読み継がれた。そして治代になると、その物語にい関を持つ1の国が現れた。
本文化をし、に泉の名でられるようになったラフカディオ・ハーンである。
泉は、勝郎の物語を「勝郎の転」としてまとめた。本ので実際に起きたと伝えられる議な来事は、英語によってへ紹介された。
野の田んぼで始まった兄弟の会話は、代を越え、を越えた。勝郎も族も、自分たちの話がい異国で読まれるが来るとは、像もしなかっただろう。
勝郎と藤蔵にゆかりのあるでは、の代になっても物語が語り継がれた。幡にはまれ変わりに関する記碑が建てられ、程久保と野を結ぶ話は、域の歴史の部として残されていった。
広告
その記碑のにつ者のには、まれ変わりを信じるもいれば、戸代に残された議な記録として興を持つもいる。
ただ1つ確かなことは、8歳の勝郎がをかなければ、この物語はしなかったということである。
勝郎の物語が特別なのは、世を語った子供がいたというだけではない。本の話を族やが確かめ、さらに複数の物が聞き取りをい、その内容を文字として残した点にある。
程久保の藤蔵という子供が実したこと。父親の久兵がくにくなり、母親のおしづが半郎と再婚したこと。藤蔵が6歳で疱瘡によりくなったことは、勝郎の証言と致していた。
初めて訪れたはずのでに迷わず、3軒並んだの奥まったを見つけたことも語り継がれた。煙のに以はがなかったと指摘したことや、桑畑に隠した刀が見つかったことも、くの々を驚かせた。
もちろん、それだけでまれ変わりが証されたと考えない者もいる。何らかの経で報が勝郎へ伝わっていたのではないか、から話がえられたのではないかという見方も残る。
けれども、勝郎がまれるに現の両親が交わした秘密の会話をっていた理由や、幼いが藤蔵のの細部まで語った理由を、すべて説することも容易ではない。
勝郎自は、々を驚かせようとして話し始めたわけではなかった。