"愛人旅行の代償" 第1話
美は夕方から台所にっていた。
まな板のには、秀治の好きな煮魚があり、鍋のでは具だくさんの噌汁が静かに湯気をげていた。鉢にはほうれんのおひたしを盛り、蔵庫から取りした漬物を皿に移す。どれも特別な料理ではない。けれど、36もの、夫を支えてきた妻として、定のくらいは好物を並べて迎えたいとっていた。
「い、お疲れ様」
そう言うつもりだった。
卓に箸を置き、茶碗の向きを揃えながら、美はさく息を吐いた。夫の秀治は、今で会社員としての活に区切りをつける。これからは夫婦2でしゆっくり過ごせるのかもしれない。そううと、よりも、どこか堵にいが胸の奥に広がった。
玄関の鍵がいたのは、夜7をし過ぎた頃だった。
「おかえりなさい」
美は台所から顔をした。
「先にご飯にしない? 今はあなたの定のでしょう」
けれど、秀治は靴を脱ぐから、妙に浮ついた顔をしていた。見慣れた夫の表ではある。だが、そのの笑みは、族に向けるものではなく、何かを勝ち誇るような笑みだった。
「ご飯の話じゃない。事な話だ」
秀治の声はいつもよりきく、廊に響いた。
美はを拭きながら玄関へ向かった。すると、秀治のろに、見慣れない女がっていることに気づいた。
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いベージュのコートを着た女だった。齢は美よりかなり若く、髪は丁寧に巻かれている。元には柔らかな笑みが浮かんでいたが、その目だけは妙にえていた。
「はじめまして。織です」
女は軽くをげた。
その声は柔らかい。けれど、美は瞬で分かった。
謝りに来たの顔ではない。
何かを奪いに来たの顔だった。
玄関マットの方が、まだ慮というものをっている。美はそんな違いなことを考えながら、女の顔を静かに見た。
「織さん、ですか」
「ええ」
美が秀治を見ると、秀治は靴も脱がずに胸を張った。
「からへく」
「へ?」
美はゆっくり聞き返した。
「誰と誰が?」
「俺と織だ」
秀治はしも悪びれずに答えた。
「退職でく。おには関係ない」
美の指が、茶碗の縁で止まった。台所から漂っていた煮魚の匂いが、急にくなったようにじた。
「退職を、その方との旅に使うの?」
「そうだ。俺が働いてきただ。これからは俺のをきる」
その言葉は、鋭いものではなかった。むしろ、当たりのことを確認するような響きだった。だからこそ、美の胸にはく刺さった。
「私は36、このを守ってきたわ」
美が静かに言うと、秀治はすぐに顔をしかめた。
「そういう恩着せがましい話は、もうたくさんだ」
織が歩にた。
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「美さん、秀治さんはずっとしてきたんです。最くらい自由にしてあげてください」
美は織の言葉を、胸の奥で度だけ受け止めた。
りより先に、い疲れが沈んでいく。
このたちは、私が何をしてきたかをらない。ろうともしない。ただ、秀治が語った都のいい物語だけを信じて、今ここにっている。
秀治は着の内ポケットからい封筒を取りし、卓のへ投げるように置いた。
「婚届だ。帰ってきたら判を押せ」
封筒の角が、えた箸に当たってさな音をてた。
美はそれを見ろした。
煮魚も噌汁も、まだ温かい。けれど卓の空気だけが、気にえていった。
秀治は続けた。
「帰ったらこのをてけ。俺は織としく暮らす」
織は黙っていたが、その横顔には隠しきれない期待があった。
美はしばらく何も言わなかった。
秀治は、美が泣くとっていたのかもしれない。鳴るとっていたのかもしれない。婚届を突き返し、織に向かってを爆発させると予していたのかもしれない。
けれど、美は泣かなかった。
叫びもしなかった。
ただ、ゆっくり顔をげた。
「旅は止めません」
秀治の眉がいた。
「なら話がい」
「でも、判を押すとは言っていません」
瞬、秀治の笑みが止まった。
織も、初めて表を変えた。
卓ので、婚届のさだけが妙に浮いていた。
美はそのい封筒を見つめながら、胸の奥で静かに何かが切り替わる音を聞いた。