"50年目の沈黙の部屋" 第8話
田が、塗り込められた部のをっていただけではなく、個にそれを封鎖する事を承認し、支払いまで認めていたことを示していた。
この文は、元護師の証言を裏づけた。
吉川が京の病院へ転院したという説を崩した。
部全体を塗り込める事を命じたことを、偶然忘れることはできない。
捜査官たちは、請求のコピーを田の弁護士に提示した。
弁護士たちも、状況が変わったことを理解した。
続いた沈黙の壁は、ついに音をてて崩れ始めた。
証拠が見つかったことで、事件はきくいた。
福井方検察庁は、事件を正式に再分類した。
過の記録、観察誌、元護師の証言、請求、そして部の構造。それらをわせると、吉川のは単なる管理ミスや事故ではなく、図な隔と放置によるものと判断された。
報関にも報が漏れた。
「閉鎖病院の壁のから骨化した遺体」
「50く誰にも探されなかった患者」
「塗り込められた監禁」
聞やテレビは、その衝撃な見しを掲げた。
古い病院のには報陣が集まり、阪の老ホームにも記者が押しかけた。病院の跡へ続くにはが並び、元の々は戸惑いながらその様子を見ていた。
吉川の物語は、本社会にきな衝撃を与えた。
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それは、ひとりの患者のであると同に、患者に権利がなく、その運命が医師の判断、には残酷さに委ねられていた代の暗部を突きつけるものだった。
彼は暴れた患者だったのかもしれない。
妄に苦しみ、周囲を怖がらせたこともあったのかもしれない。
しかし、それでも彼はだった。
閉じ込められ、べ物とを断たれ、んだに壁のへ隠されてよいではなかった。
報が広がるにつれ、世論は変わっていった。
「過のこと」では済まされない。
「当は仕方なかった」では済まされない。
吉川という名は、ようやく々のにのぼるようになった。
50く誰にも呼ばれなかった名が、聞に載り、テレビで読みげられ、ネットで共された。
方、田賢治への法続きは複雑だった。
齢と健康状態を考慮し、彼が柄を拘束されることはなかった。弁護士は、田が齢であり、分な記憶も判断能力もないと主張した。
しかし、請求の署名は残っていた。
観察記録は残っていた。
元護師の証言もあった。
そして、何よりも、壁のには吉川の遺骨があった。
裁判所は、田が院として吉川を適切な治療なしに隔された部へ図に閉じ込め、そのに至る状況を作りし、その、部を塗り込め、職員に虚偽の説をすることで痕跡を隠蔽したと認定した。
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田は最終判決を見ることはなかった。
罪が法に認定されてから2か、彼は阪の老ホームのベッドでくなった。
最まで、吉川に対する謝罪の言葉は公には残されなかった。
事件は終わったように見えた。
だが、その余波は続いた。
国民の抗議を受け、労働省は対応を余儀なくされた。臣は特別記者会見をき、福井の旧精神科病院で起きた事件について、国を代表して公式に謝罪した。
当の精神科施設に対する監体制に欠陥があり、それが吉川の劇につながったこと。
そして、同じように語られることのなかった患者がにもいた能性を否定できないこと。
それらを認めた。
それは、公関によるまれな謝罪だった。
だが、謝罪があったからといって、50の空が埋まるわけではなかった。
吉川が最に何をったのか。
暗い部ので、誰の名を呼んだのか。
扉の向こうにの気配をじながら、助けを求めたのか。
それは誰にも分からない。
観察記録の最の言葉は、あまりにもたかった。
「もはや命の兆候を示さず」
その文のに続くはずだったは、空のページになっていた。
法続きが終わった、病院跡の処遇が決められた。
古い建物は危険であり、事件の記憶を抱えたまま残しておくことも難しいと判断された。
かつての残酷さを隠した所。
そして、その残酷さを50に暴いた所。