"売却済みの洋食店で、女将ごっこをする女" 第1話
弁護士事務所の応接には、乾燥したエアコンのの音だけがく響いていた。
机の央に置かれた、通の類。 婚協議と、緑の枠線で囲まれた婚届。
私は元の黒いボールペンを握り、自分の名をき終えた。 朱肉に実印を押し、面へまっすぐに押し当てる。 朱の円が、に滲むことなく鮮に浮かびがった。
向かい側に座る夫――浩司は、その様子を退屈そうに眺めていた。
「よし、これで終わりだな」
浩司は指先で軽く自分のネクタイを緩め、息を吐きした。 を過ぎてし弛んだ頬に、隠しようもない堵のが浮かんでいる。
「、まあ、おもいろいろ苦労したよ。これからはお互い、別のを歩もう」
声の調子は、まるでの商談を無難にまとめ終えた取引先のようだった。 そこには片の罪悪も、という歳への慨もなかった。 あるのは、面倒な荷をようやくろしたという、浅ましい軽さだけ。
私は印鑑を用からし、静かに浩司を見つめた。
「は、どうするつもり?」
く尋ねると、浩司の元がわずかに吊りがった。 れむような、あるいは自分の優位を誇示するような笑みだった。
「のことは配するな。あそこは俺がずっと現にって守ってきたんだ。これからも何も変わらない」
「そう」
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「おがいなくなっても、現は回る。これからは玲奈も伝ってくれるしな。あいつは宣伝のセンスもあるし、の将来を真剣に考えてくれている」
隠すことすらしていなかった。 私がすべてをっていると分かっていながら、浩司は悪びれもせずその名をにした。
原田玲奈。歳。 にの宣伝とSNS企画の注として入り込み、いつのにか浩司の懐に潜り込んでいた女。
「……浩司さんがそう決めたなら、いいけれど」
私はそれ以、言葉をねなかった。 弁護士がち会い、類の控えをそれぞれの元に収める。
応接をて、雑居ビルのエレベーターに向かう通を歩くも、浩司の取りは軽やかだった。 革靴の音が気よく廊に響く。 スマホを取りし、画面をタップしている浩司の横顔は、完全に次の獲物のことしか考えていなかった。
エレベーターの扉が閉まり、浩司の姿が界から消えた瞬。
私はバッグから自分のスマートフォンを取りした。 たいガラスの画面を指先で叩く。
宛先は、当社の税務を担当してきた税理士の井雅彦。
『予定どおり、最終続きをめてください』
くそれだけを打ち込み、送信ボタンを押した。
秒も経たずに、画面の端に「既読」の文字がついた。 準備は、かから完璧にえてあった。
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浩司が私との婚を急ぎ、玲奈とのしい活を見て浮かれていた。 私は弁護士と税理士を交え、面で買収先とのデューデリジェンスをすべて完させていた。
持ち株比率、百パーセント。 私が単独で保する「株式会社瀬企画」の全株式。
それを、チェーンを展する「株式会社エム・フーズ」代表、黒田真理へ譲渡する契約。 決済は、今。 そして実務の引き継ぎは、――。
喉の奥が、かすかにひりつくようなを帯びていた。 りではない。 、あの男と義母の虚栄を支え続けてきた毛な歳に対する、徹な終止符の覚だった。
そのの夜、浩司から玲奈へと送られたメッセージを、私は見る由もなかった。 けれど、翌朝のの空気が、すべてを雄弁に物語っていた。
午半。 京の町、創業の「瀬亭」。
な製の引き戸をけてに入ると、内にはすでに微かな緊張が漂っていた。 まだ仕込みの途のはずの厨から、スープを煮すばしい匂いが漂ってくる。
客席の奥、レジカウンターのに、見慣れない姿があった。
原田玲奈だった。
仕てのいいリネンの割烹着――いや、淡い桜のエプロンをに纏っている。 その胸元には、丁寧な糸の刺繍が施されていた。
『瀬亭 女将 玲奈』
……女将?
わず、のでさく乾いた笑いが漏れそうになった。
に女将などという役職は、創業以来度もしたことがない。 それは、義母である幸子が勝に自分を飾りてるために名乗っていた、ただの自称に過ぎなかった。