"「毎日そんなに持ち帰るのか」厳しい常連客が父を見て泣き崩れた" 第16話
のを超えて、の昼、は再び相まみえる。 記憶を失った父と、すべてを覚えている男。
その、体何が起きるのか。 私の胸は、激しい期待と、言葉にできない恐怖で締め付けられていた。
曜。朝で湿った浅の空気が、台区民文化館の調理を包んでいた。
ステンレスのきな寸胴鍋から、湯気がちる。 赤ワインのい渋みと、炒めた野菜の甘い匂い。 を止める直、依頼した若いの料理が、父のノートの指示通りにリンゴ酢を数滴垂らした。
ふわっとちった微かな酸の混ざるりに、厨の脇で見守っていた妹の由紀が、さく息を呑んだ。
「……この匂いだ」
由紀が呟き、目を指先で押さえる。 私もく頷いた。 、私たちが当たりのように吸い込んでいた、父の『ひだまり』の匂いだった。
午半。 『ひだまりの』ときでかれたさな案内板をした目に、懐かしい顔ぶれが次々と現れた。
乾物の井さんを先に、かつての商の老たち、くの理髪の夫婦、かつて学で盛りご飯をかき込んでいたという初老の男性たち。 壁には、集まったたちが持ち寄ってくれた古い写真や、黄ばんだきのメニュー表がピンで留められている。
会のざわめきの、父は番奥の、当たりのいい丸テーブルに座っていた。
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糊の利いた清潔なシャツに、チャコールグレーのスラックス。 周囲から「正ちゃん! 元気だったかい」「昔、コロッケおまけしてくれたの覚えてるよ」と声をかけられるたびに、父は戸惑ったようにさく会釈を繰り返していた。
やはり、誰の顔もいせていない。 線は泳ぎ、落ち着きなく膝ののナプキンを指先で丸めている。 認能のは、残酷なほど現実だった。
「佐伯さん」
背から掛けられた控えめな声に、私は振り返った。
そこにっていたのは、黒田様だった。 級なスーツも、威圧なチェスターコートも脱ぎ捨てていた。 どこにでもいる初老の男性のような、チャコールグレーのシンプルな丸首のニットに、皺のない綿のスラックス。 運転も連れず、ただで、慮がちにドアの脇にっていた。
「……来てくださったんですね」
私が声で迎えると、黒田様は々とをげた。
「邪魔にならないよう、隅にいさせてくれればいい。……ご主の料理の匂いが、ここまで漂ってくるよ」
黒田様は、会の番端にある、さな掛けの製テーブルへと静かに腰をろした。 名刺を配るでもなく、挨拶を求めるでもない。 ただ、のあの夜のように、腹を空かせての引き戸をけたの青の佇まいで。
厨から、々のビーフシチューが運ばれてきた。
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湯気をげるい陶器の器。 じっくりと煮込まれた牛すね肉と、面取りされた参、そしてあの微かに酸の効いた漆黒のデミグラスソース。
私はそのトレイを受け取り、黒田様のテーブルへと運んだ。
「お待たせいたしました。『ひだまり』のシチューです」
黒田様のが、テーブルので微かに震えた。 湯気を目に受けた瞬、鏡の奥にみるみる涙が溜まっていく。
「……あのと、同じ匂いだ」
掠れた声が漏れる。 スプーンを握る指先が、刻みに揺れていた。
私は父の元へ歩み寄り、その痩せた肩にそっとを添えた。
「お父さん。ちょっと、あっちの席にってみようか」
「ん……? ああ、そうかい」
父は素直にちがり、私の腕に捕まりながら、ゆっくりとした歩調で黒田様のテーブルへと向かった。 由紀がろから配そうに見つめている。
向かいの子を引いて、父を座らせた。 父の目のには、湯の入った湯呑みだけを置く。
父は、向かいに座る男の顔をぼんやりと見つめた。 黒田様は、背筋を真っ直ぐに伸ばし、膝ので拳をく握りしめている。 企業の会が、まるでのように肩を竦めていた。
「……佐伯さん」
黒田様の唇が、震えながらいた。
「、私は……このシチューを、あなたにべさせてもらいました」
父は返事をしない。 ただ、見らぬに話しかけられたの、所なさげな笑みを浮かべて首を傾げている。
黒田様は、ニットのポケットから、さくつ折りにされた枚のを取りした。