"返せなかった六百二十円" 第1話
父のだけ返さなかった
「のは返して、父親のだけ返せんというのか」
昭の午、神田の信用張所で、その声だけがはっきり聞こえた。扉のでは百を超える々が列をつくり、歩の端まで押しっていた。蔵臣が議会でについて何か言ったという噂が、朝のうちに町をったのだ。どのが危ないのか、誰も正しく説できない。それでも々は通帳と印鑑を握って窓へ駆け込んでいた。
窓に座る徳田美佐は歳。採用されて、預伝票に数字を違えたことは度もなかった。だがそのばかりは、指が言うことを聞かなかった。円を受け取った宿の女主は、札を数え直すとようやく息を吐き、次に並ぶ魚の男は「うちの仕入れは朝なんだ」と何度も叫んだ。庫係が奥から運ぶ札束は、昼を過ぎて目に見えてくなっていた。
美佐がこのへ勤め始めた正には、関震災のため帳簿を失った預者が何も訪ねてきた。誰かが焼けた通帳を持ってくると、先輩は控えの番号をつずつ追い、急いで答えをすより先に本の事を聞いた。美佐はその背を見て、の仕事とは違わずに確かめることだと覚えた。いま列のにいる々の通帳は焼けていない。
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それでも顔には、とよく似た怯えがあった。
彼女は若い男性員に頼まれて、の払戻し伝票をまとめて照した。預者は残らず活を背負っており、さなでもきなでも、戻される側にとっては同じ件だ。そのことをでは理解していたのに、午になると現の束のみばかりを見てしまっていた。
父の源吉が現れたのは、をし回った頃だった。歳の父は隣町でさな印刷所を営んでいる。仕事着に付いた黒いインキは、袖を洗っても落ちなかった。父は並んでいたに何度も謝りながら、美佐の窓まで来ると、通帳と払戻請求を置いた。
「百円、全部だ。今夜、職にを渡さにゃならん」
美佐は額を見た。印刷所の末の料と代のために積みてただった。係の坂は昼休みに言っていた。「きな払戻しが続けば、夕方までもたん。異例のものは必ず私に回せ」。百円は、この窓では違いなくきな額だった。
「印鑑は、これで違いありませんか」
「通帳にあるだろう」
「照します。しお待ちください」
美佐は請求を押さえたまま、すぐには番号札を戻さなかった。父の印鑑に問題はなかった。所も署名もっている。係へ回せば、がかかる。そのだけでも現をさずに済む。
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そうったことを、美佐は自分で分かっていた。
「美佐。お、何を調べとる」
背から「次をくしろ」という鳴り声が聞こえた。美佐は係の机まで伝票を運んだ。坂はちらりと面を見て、「これは払いすしかない。ただ、支の確認をもらえ」とさく言った。彼も現の残りをっているのだ。美佐が父のところへ戻ると、父は歩もいていなかった。
「お父さん、もうしだけ」
「待てん。では職に払えん」
美佐は奥へった。支の森崎は話を取ったまま首を振り、あとにしてくれと振りした。分、分。窓の計の針がむのに、払戻請求は机の端へ置かれたままだった。
ついに森崎は受話器を置き、ちがった。「現の払戻しは、本の分を終する」。員たちが顔を見わせた。まだ列が続いていた。美佐のに残った伝票も、枚のでしかなくなった。
父は窓のガラスを叩かなかった。請求を受け取ると、度だけ娘の顔を見た。
「おは、俺がいつまで待てるかっとったな」
美佐は弁解しかけたが、声にならなかった。父はそのままていった。背を追おうにも、窓には恐ろしくい列が残っていた。
夕暮れ、張所の戸が閉じた、美佐は裏から町へた。通りにはの噂が溢れ、聞売りのまで「どこそこが休業した」
と叫んでいた。印刷所の灯りはまだついていた。
戸をけると、械は止まっていた。活字箱のに職がち、父が帳面を机へ置いていた。いつもは陽気な植字の戸倉だけが、黙って腕を組んでいた。
「は、待ってくれ」
父の声を聞いて、美佐はちすくんだ。見習いの井が「母が薬を買うことになっていて」と言ったが、源吉はをげるしかない。戸倉は美佐に気づくと、いつもの「お嬢さん」とは呼ばなかった。
「で返してもらえなかったそうですね。私らのも、そのの都で消えたんですか」
美佐が父に事を話そうとすると、源吉が止めた。
「話はでいい。今夜は、へ帰れ」
「お父さん、私……」
「、あの窓に並ぶのは俺だけじゃない。ここにいるが、別々のに帰って族へ言わなきゃならんのだ」
帰宅した美佐は湯を沸かしかけたが、をつけられなかった。父の通帳を見なくても、百円の数字は瞼に焼きついている。帳簿がうことと、の暮らしがうことは別なのだと、その夜初めてった。
翌朝、へくに印刷所を覗くと、戸倉の席が空だった。弟のが声で言った。「戸倉さん、もう来ないって。今朝、番に具を持ってった」。
父は枚のを美佐のに差しした。問から届いた、翌までの支払催告だった。
父は言った。
「おのがまた閉めたら、次はこの械を売るしかない」
美佐はその枚を見つめたまま、勤のを過ぎてもけなかった。