"歩けるようになった夫が、最初に捨てたのは私だった" 第16話
その報告を聞いた、私は職の湯で、ただ静かに呼吸をした。 夫がどう暮らしていようと、もう私の常を乱す嵐にはならない。 私たちは、別々の空気を吸い、別々の財布できている。
そう、っていた。
の第個目の曜の朝、ポストをけると、く分いの封筒が入っていた。 差の欄には、義母の達な毛文字。
に入っていたのはではなく、宿にある老舗料亭の、箔が施された案内状だった。 便箋には、相変わらずを馬鹿にしたような、それでいて妙に勝ち誇った文字が並んでいた。
『健介のリハビリも満願となり、暮らしの禊(みそぎ)も分に済みました。 親戚の皆様をお招きして、健介の全祝いと、夫婦の仕切り直しの席を設けます。 美さんも、そろそろを張るのはおやめなさい。 嫁としての分を弁え、正装で席すること。林千鶴』
「……仕切り直し?」
胃の底が、ねじれるようにくなった。 暮らしの禊。 まるで、夫がをたのも、怪をしたのも、すべては「ちょっとした楽」であり、私がをげて迎えにくための台装置だとでも言わんばかりの言いだった。
の端を握る指先が、微かに震える。 だが、その震えは、半にじていた恐怖や絶望から来るものではなかった。
ただの、ややかな覚悟だった。
広告
曜、午。
簾をくぐり、錦鯉が泳ぐ池のの渡り廊を歩く。 庭の葉が鮮やかにづいていた。 案内された広のには、『林御同様』の札が掲げられている。
引き戸をけると、の匂いと共に、親族たちのざわめきが斉に止まった。
座敷の奥、のを背にして番の座に座っていたのは、加賀友禅の豪奢な留袖を着た義母だった。 その隣には、夫の叔父夫婦や従兄弟たち、総勢名が顔を揃えている。
そして――義母のすぐ斜め。 背筋を丸め、どこか落ち着かない様子で座っていたのは、夫・健介だった。
黒いスーツを着ているが、肩の周りが以より回りさく見えた。 元には、本の黒いステッキが、静かにてかけられていた。
「遅かったじゃないの、美さん」
義母は扇子をパチンと膝ので鳴らし、わざとらしく座敷に響く声で言った。 その表には、「逃げのない所へ追い込んでやった」という歪んだ優越が満ちていた。
「親戚の皆さんも、あんたたち夫婦の復縁を配してお集まりくださったのよ。さあ、健介の隣に座りなさい。これまでの無礼をみんなにお詫びして、健介の面倒をまたから見ますって、誓いなさいな」
親族たちが、値踏みするような線を私に注ぎ込む。
「そうだよ、美さん。けんちゃんも暮らしで散々苦労したみたいだし、もう分反省しただろう」
広告
叔父が、ビールグラスを片にしたり顔でを挟む。
「男が度で痛い目を見たら、女のありがたみが骨に沁みるってもんだ。これからはあんたがしっかり綱を握って、支えてやりゃいいんだよ。夫婦なんだから」
内の同調圧力。 世体という名の、たく淀んだ空気。 半、私がどれだけのいで血を吐きながら自分のを固めてきたかもらず、無責任な善の顔をして、私を再びあの介護の檻へ押し込めようとしていた。
私は、健介の隣の空いた座布団には座らなかった。 末席の、畳のに静かに正座した。 着てきたのは、先週の料で買った、仕ての良いグレーのセットアップスーツだった。
「お義母さん。親戚の皆様」
私の声は、静かに、しかし凛と通った。
「今、ここへ参りましたのは、復縁のお願いをするためではありません。林健介さんとの、今の関係について、確な清算をご報告するためです」
広の空気が、ピシリと凍りついた。
義母の顔から、笑みが剥ぎ取られていく。
「な……何を言ってるのよ、あんた! こんな席で恥をさらす気!?」
「恥をさらしているのは、どちらでしょうか」
私はバッグから、通のクリアファイルを取りした。 座卓のに、滑らせるように置く。
表には、『別居期における諸費用負担および活自に関する確認』。
私が弁護士と相談し、淡々と作成した面だった。