"末席の男が放った三百億の通告" 第10話
「……弘君? 聞いてる?」
貞子の澄んだ声が、俺の識を再びホテルの宴会へと引き戻した。
「ああ、聞いてるよ。図館の話だろ?」
「うん。私、今は児童のフロアを担当してるの。子供たちに本を渡す仕事」
貞子は自分の膝のに置いたを優しく撫でた。
「お料はすごくいけどね。でも、私にとってはすごくいい仕事だとってるんだ」
自分の仕事を、自分のと誇りで選び取ったの声だった。
「いい仕事だとうよ、本当に」
俺がからの実を込めてそう告げると、貞子は嬉しそうに目を細め、自分の皿にあった鶏の唐揚げをつ、割り箸で俺の皿へと取り分けてくれた。
「弘君も、きっといい仕事をしてるんだろうね」
「どうしてそううんだ?」
貞子は箸を止め、し首を傾げて考えたあと、ふふっと笑った。
「顔」
そう言って、自分のい頬を差し指で指した。
「すごく、ちゃんと働いてるの顔をしてるから」
俺は何も言葉を返すことができなかった。
、あの暗い放課の教で掛けられた言葉と同じ温度の言葉を、の歳を経て、まったく同じ差しで向けられた。
俺はこのに会うために、今夜この所へやってきたのだと、その瞬、底理解した。松本がハガキの余にき残したあのは、寸分の狂いもなく正しかったのだ。
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だが、その静かで温かな空気を無残に切り裂いたのは、背からづいてくる甲いハイヒールの音だった。
「あら、貞子もいたんだー!」
久エリだった。
その背には、ハイボールのグラスをにした岡崎と、ワイングラスを揺らすの取り巻きの女が、まるで親隊のようにぴったりと従っていた。座の華やかな卓を巡し、退屈しのぎに番ろの末席までやかしにやってきたらしい。
「相変わらず、弘の方してんだねえ」
エリは空いていたパイプ子を乱暴に引き、俺と貞子のに無理やり割り込むように腰をろした。岡崎がすかさず俺の子のすぐろにち、から見ろすように腕を組む。昔から、相を理に圧迫するち位置を好む男だった。
「昔から、貧乏同士、仲良かったもんねー!」
エリが嘲笑混じりに言い放つと、背の取り巻きの女たちが元をで覆ってクスクスと笑った。
だが、貞子は笑わなかった。
テーブルので静かに割り箸を揃え、まっすぐにエリの瞳を見据えた。
「弘君は、昔から仕事に対してすごく真面目だったよ」
声は決してきくなかった。だが、芯の通った、凛とした響きがあった。
エリは聞こえなかったふりをして、元のグラスを軽く揺らした。
「まだ図館で司やってんでしょ? へえー、偉いねえ」
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『偉いね』という言葉を、この女が相を褒めるために使ったことなど度もない。から、それは彼女にとって相を値踏みし、見すための最悪の常套句だった。
貞子はそれ以何も言い返さず、を結んだ。だが、席をとうとはしなかった。皿を持って別の卓へ逃げることなどいくらでもできたはずなのに、彼女は背筋を伸ばしたまま、俺の隣に座り続けていた。
、誰に頼まれるでもなく、教の机のにノートを差し入れ続けていたときと、まったく同じさがそこにあった。
エリは通りがかった仕のトレイからしいワインのグラスを奪うように受け取ると、体をこちらへ向け直した。
「でさ、弘。会社やってるなら、どこの使ってんの?」
それは質問の形を取っていたが、決して純粋な問いかけではなかった。相の答えによって、次にどんなマウントを取るかを計算し尽くした、の悪い目つきだった。
「いくつか、分けて使ってるよ」
「へえ、いくつか? で、うちは?」
俺は、拍だけ呼吸を置いた。嘘をつく必など微もなかった。
「王にも、かなり世話になってるよ」
その瞬、エリの顔がパッと華やぐようにるくなった。そして、待ってましたとばかりに勝ち誇った笑みを元に張り付かせた。
「えーっ!? じゃあ、うちのお客さんじゃん!」
『うちの』と、エリは平然と言い放った。
取の娘が、そのものをまるで自分の私財産であるかのように『うち』と呼ぶ。