"深夜1時、母は開けるなと言った" 第16話
「千さん」 玲子の声がした。笑を含んだ、嘲るような響きがあった。
「お母さんが、またあなたを盾にしたのね。 あのは昔からそうなのよ。自分がをかぶるのが嫌だから、誰かのろに隠れて、が傷つくのを見ないふりをする。今度は、自分の娘を代わりにてたわけ?」
その言葉は、私の胸の最も痛い部分に突き刺さった。 否定したかった。母はそんなではないと言い返したかった。 だが、ポケットのにある緑のメモが、私の舌を縛り付けていた。玲子の言う通りだった。母はずっと、そうやってきてきたなのだ。
それでも、私は歩も退かなかった。
「母がしたことは、許されることじゃないといます。 あなたが、獄のようないをしてきたことも、像を絶する苦しみだったといます」
私は鉄のドアにを当てた。たい触が掌から伝わってくる。
「でも、夜にのに押しかけて、ドアを叩いて脅迫していい理由にはならない。 あなたの正しさは、このドアを力任せにけようとした瞬に、ただの暴力に変わったんです。……このドアは、もう度ときません」
が、沈黙に包まれた。 がりの夜気ので、が庭の犀の枝を揺らす音だけが聞こえた。
数秒ののち、くから微かに、サイレンの音が聞こえ始めた。 く唸るようなその音は、宅の坂を登り、急速にこのへとづいてくる。
広告
「……ふふ」
ドアの向こうで、玲子がく笑った。 それは狂気というよりも、途方もない疲労と虚しさに満ちた笑い声だった。
「鍵をかけて、警察を呼んで……そうやって守ったお母さんは、本当に守る価値のあるだったかしらね、千さん」
靴音が、玄関ポーチのコンクリートをゆっくりと踏み鳴らした。 パトカーの赤灯のが、玄関ドアの型板ガラス越しに、赤と青の気なの筋となって差し込んできた。 タイヤの軋む音、ドアの閉音、そして複数のい音が庭先を横切る。
「千葉県警です! そこの方、かないで!」
警察官の鋭い声が夜のを切り裂いた。 で何事かを問いただす警察官の声と、それに淡々と答える玲子の声が交錯する。乱闘や鳴は起きなかった。玲子は暴れることもなく、警察官の指示に従って任同に応じているようだった。
私はドアガードをかけたまま、ドアを数センチだけけた。 たい気が、玄関の淀んだ空気を気に吹きばす。
ポーチの階段の、の制警官に挟まれた佐伯玲子が、ゆっくりと振り返った。 赤灯の回転するが、彼女の濡れた髪と、細い属フレームの鏡を赤黒く染めげていた。
彼女の線は、私を通り越し、の暗がりにうずくまる母の姿を正確に捉えていた。 そして、声をさずに、唇のきだけで、こう言った。
広告
——殺し。
パトカーのドアがバタンと閉まり、エンジン音がざかっていく。 赤灯のが夜のに吸い込まれ、宅には再び、鉛のような静寂が戻ってきた。
私はドアを閉め、つの鍵を回し、チェーンをしっかりと掛けた。 母はのたいので、膝を抱えたまま微だにしなかった。 私は母に駆け寄ることも、その背をさすることもせず、ただ自分の部へと続く暗い階段をがっていった。
それからヶが過ぎたの初旬、私たちは松戸の実を引き払うことになった。
父の会社の処理と相続続きは司法士のによって淡々とめられ、築の古い造は、解体提の更渡しとして隣の産業者に売却されることが決まった。 佐伯玲子に対しては、警察からストーカー規制法に基づく正式な面警告がされ、政士を通じて旧類の返還が法に完したことで、夜の訪問は完全に途絶えた。 彼女がそのどこへき、どのような活を送っているのかを、私はらない。る必もなかった。
母は、松戸内の駅からしれた、さなワンルームの齢者向け賃貸マンションへ引っ越すことになった。 私は都内の職くにしくアパートを借り、再び暮らしに戻る。 母と緒に暮らすという選択肢は、あの以来、私のからも、母のからも完全に消え失せていた。