"妻が胸に縫い込んだ謎の数式" 第5話
「まさか……」
微かな呟きが、静まり返った斎に漏れた。
胸が激しく鳴っていた。血流がの奥でドクドクと音をてる。
私は再び鉛を握り直した。今度は、計算のための無質な具としてではない。こののに隠されたメッセージを、この世界に引きずりすためのとして。
まずは、側の輪郭線。
原点の真、$(0, 1)$ から鉛の先を滑らせる。
線は滑らかにへと登り、$(0.5, 1.24)$ 付で柔らかな丸みを帯びた頂点を迎える。そこから緩やかにし、$(1.0, 1.0)$ を経由して、端の張りしである $(1.14, 0.57)$ へと優雅な弧を描いて落ちていく。
側も同様だ。$(0, 1)$ からへと登り、$(-0.5, 1.24)$ で頂点を作り、端の $(-1.14, 0.57)$ へと流れていく。
央の $x = 0$ の部分――。
$(0, 1)$ において、のふたつの丸いが滑らかに流し、央にくぼみを作っている。
そして、側の輪郭線。
の端点 $(1.14, 0.57)$ と $(-1.14, 0.57)$ から、線は急激に内側へと巻き込みながら、に向かって絞り込まれていく。
$(1.0, 0)$、$(0.8, -0.31)$、$(0.5, -0.61)$、$(0.2, -0.82)$……。
点と点を繋ぐ線は、へけばくほど直線にいシャープな角度を帯びていき、やがて最点である、
$$(0, -1)$$
へと、鋭く収束していく。
鉛の芯が、の繊維を滑る微かな摩擦音。
最に、$(0, -1)$ の先端で、から伸びてきた本の線がぴたりと交差し、閉じたひとつの輪郭が完成した。
私は鉛を握ったまま、けなくなった。
スタンドのかりの、い方の央に浮かびがっていたのは――。
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息を呑むほど端正で、対称の、完璧な「ハートマーク」だった。
部はふたつの柔らかな丸みが寄り添うようにくぼみを作り、両脇は豊かに側へと張りし、そして底部は、臓の鼓が先端に集まるかのように、潔く尖った点へと収束している。
歪みのない、数学な美しさを湛えた、純のの象徴。
「……ハート……」
声が震えていた。
目が急激にくなり、界が滲んだ。慌てて首で目を擦る。方に涙の染みを作ってしまっては台無しだ。
エプロンに刺繍されていた、あの徹で難解に見えた代数方程式。
展すれば次にもなる、見すると無な記号の羅列。
それは、計算科学や数学の歴史のなかで誰かが発見した、次元平面に完璧なハートを描きすための、奇跡のような関数曲線だったのだ。
彩は、これをどこで見つけてきたのだろう。
数学など全く縁のない世界できてきた彼女が、夫である私をばせるためだけに、数式を探し、調べ、それが本当に綺麗なハートを描くのかどうかを誰かに確認し、そして特注のエプロンに、針針の刺繍として仕ててくれたのだ。
『うちの旦なら、ちゃんと解くでしょ?』
彼女のあの悪戯っぽい、慈しむような笑顔が、鮮やかに脳裏に蘇った。
彼女はっていたのだ。
私が言葉での表現が苦であることも。
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私が世界を数式を通してしか見られない、器用な男であることも。
そして、そんな私だからこそ、この数式を受け取ったときに、誰よりもく、誰よりも正確に、その奥底に込められたメッセージを受け取ることができるのだということを。
彼女は、私を無理に変えようとはしなかった。
「もっと言葉にしてよ」「たまには甘いこと言ってよ」と責めるのではなく、私が最もし、私が最も信頼している「数学」という言語を使って、私にラブレターをいてくれたのだ。
している、と。
言葉にできない私の代わりに、彼女が、私の言葉でを告げてくれたのだ。
胸の奥が、い奔流で満たされていくようだった。
これまで私が抱えてきた、言葉にできないことへのろめたさや、理屈っぽい自分に対する諦めが、その美しい鉛の軌跡のなかに溶けて、消えていくのをじた。
私はちがった。
子を引く音も気にせず、元の方を両で持ち、エプロンを腕に掛けたまま、斎のドアをけた。
廊をに歩き、リビングへと戻る。
ダイニングテーブルの向かい側では、彩がめたほうじ茶の湯呑みを両で持ったまま、文庫本を読んでいた。私の音に気づいて、彼女がゆっくりと顔をげる。
その表には、私の予通り、しのと、それ以の悪戯っぽい期待が浮かんでいた。
「……解けた?」
彼女の控えめな声が、静かな部に落ちた。