"妻が胸に縫い込んだ謎の数式" 第3話
彼女のその言葉に、私は完全に言葉を奪われた。
挑戦状だ。いや、そうではない。これは、彩から私に向けられた、謎解きの形をした贈り物なのだ。
「うちの旦なら、ちゃんと解くでしょ?」
そう言わんばかりの、どこか試すような、けれど絶対な信頼を湛えた瞳がそこにあった。彼女は私が理系のであり、数式に対して異常なまでの執着と敬を抱いていることをり尽くしている。だからこそ、何の注釈もつけずに、ただこの徹な記号の連なりだけを胸元に縫い付けて、私に渡したのだ。
胸の奥が、くざわめき始めた。
「……ちょっと、待っててくれ」
私はエプロンを両で切に抱えたまま、子からちがった。
「え、今から?」
彩が驚いたように目を丸くする。
「今からだ。これを解かずに、今夜眠れるわけがない」
「もう、相変わらずせっかちなんだから。お茶、めちゃうよ?」
「すぐに戻る。いや、しがかかるかもしれないけれど、必ず解くから」
私はリビングをにし、廊をに渡って、自の斎へとび込んだ。
斎は、壁面の本棚に専や論文のファイルが敷き詰められた、私の個なだった。デスクのには普段使っているノートパソコンが鎮座しており、スリープモードの画面が黒くっている。
パソコンをけば、Mathematicaでも、Pythonのmatplotlibでも、あるいは適当なオンラインのグラフ描画ツールに式を打ち込みさえすれば、秒にも満たないでその答えは画面に表示されるだろう。
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エンターキーをひとつ叩くだけで、この数式が描く軌跡は無質なピクセルの集としてらかになるはずだった。
だが、私のはキーボードには向かわなかった。
机の引きしをけ、用している製図用の軸ホルダーと、2Bの黒鉛芯を取りす。そして、学代から使い続けているのミリ方のルーズリーフを枚、滑らかなデスクマットの央に広げた。
パソコンの画面で見てしまっては駄目なのだ。
彩は、この数式を針針、糸の張力を調しながら、私の胸元に刻み込んでくれたのだ。その仕事の温もりに対して、械任せのシミュレーションで答えをすなどという無粋な真似が許されるはずがない。
自分ので、鉛の先を削り、座標軸を引き、数値を代入し、極限を調べ、その軌跡を追いかけること。それこそが、この謎に対する唯の誠実な態度であり、理系としてきる私が彼女のに対して払うべき、最の敬であるはずだった。
私は机のの気スタンドを引き寄せ、元をく照らしした。
カチリと芯をし、定規を当てて、方の央に平な $x$ 軸と、垂直な $y$ 軸を引く。原点 $O$ を定め、スケールを決める。
エプロンを机の脇に広げ、胸ポケットのい刺繍をもう度じっくりと凝した。
$$(x^2 + y^2 - 1)^3 - x^2 y^3 = 0$$
「よし……やってやろうじゃないか」
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私は独り言を呟き、息をくえた。
まずは、初歩な解析からだ。
方程式の辺を $f(x, y) = (x^2 + y^2 - 1)^3 - x^2 y^3$ と置く。
対称性の確認。$x$ を $-x$ に置き換えてみる。
$$(-x)^2 = x^2$$
であるから、式全体は何つ変化しない。すなわち、
$$f(-x, y) = f(x, y)$$
が成する。
「線対称だな。$y$ 軸に関して完全に対称だ」
これで、半平面、すなわち $x \ge 0$ の領域だけを詳細に調べれば、半面はその鏡像として械に描画できることが確定した。計算量は半分になる。
次に、$y$ を $-y$ に置き換えてみる。
$$(x^2 + (-y)^2 - 1)^3 - x^2 (-y)^3 = (x^2 + y^2 - 1)^3 + x^2 y^3$$
これは元の式と致しない。したがって、$x$ 軸に関する対称性はない。は非対称、ということだ。とで、まったく異なる形状が現れることをしている。
次に、軸との交点、切片を求める。
まず、$x = 0$ のとき。
方程式に代入すると、第項の $x^2 y^3$ はゼロになる。
残るのは第項のみ。
$$(0^2 + y^2 - 1)^3 = 0$$
したがって、
$$(y^2 - 1)^3 = 0 \implies y^2 - 1 = 0 \implies y = \pm 1$$
「$y$ 軸との交点は $(0, 1)$ と $(0, -1)$ の点か」
鉛をらせ、方の $y$ 軸、目盛り $1$ の位置と $-1$ の位置に、黒い点を打つ。トントン、と芯がを叩くよい音が響く。
では、$y = 0$ のときはどうなるか。
同様に第項が消える。
$$(x^2 + 0^2 - 1)^3 = 0 \implies x^2 - 1 = 0 \implies x = \pm 1$$
「$x$ 軸との交点も $(1, 0)$ と $(-1, 0)$ だ」
方の $x$ 軸、目盛り $1$ と $-1$ にも点を打つ。
ここまでは、原点をとする半径 $1$ の単位円 $x^2 + y^2 = 1$ と全く同じつの頂点を通っている。もし第項の $- x^2 y^3$ がしなければ、この図形はただの円だ。しかし、その余分な項があることによって、円の幾何学な均が歪められているのだ。