"妻が胸に縫い込んだ謎の数式" 第1話
夕暮れの淡いが、リビングの窓辺にいを落としていた。
台所からは、昆布と鰹節で丁寧に取った汁のりがふわりと漂い、微かに湯気をてる鍋の底で、さな気泡がぷつぷつと弾ける微かな音が聞こえている。私はダイニングテーブルの目に線を落としながら、元にある杯の湯を啜った。
代半ばを迎え、世般でいうところの「堅」と呼ばれるになってからというもの、私の世界は常に数値と論理の網の目に覆われていた。学院をて就職した精密械メーカーの発部で、私は来るも来るも、流体の解析シミュレーションや応力計算のコードとにらめあっていた。誤差を限りなくゼロにづけ、物理法則に従って予測能な結果を導きすこと。それが私の職責であり、代の頃から慣れ親しんできた考の様式そのものだった。
世界は数式で記述できる。どんなに複雑怪奇に見える現象であっても、適切な境界条件と方程式を与えてやれば、そこには然とした美しさがち現れる。そう信じて疑わなかったし、その無質な秩序のなかにを置いているときが、何よりもが落ち着いた。
しかし、私のその乾いた論理の世界のなかに、あるふらりとを踏み入れ、何わぬ顔で居座ってしまったのが、妻の彩だった。
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彩は私とは正反対のだった。文系の学をて、今はさなデザイン事務所でテキスタイルやパッケージの装幀を掛けている。彼女は気を気圧配置ではなくの匂いで語り、料理の付けを目分量と覚の直で決め、物事の価値を「美しいかどうか」「よいかどうか」という、およそ数値化のしようがない基準で測る。
学代の共通の友の結婚式の次会で、持ち無汰にグラスを傾けていた私に、彼女が話しかけてきたのが始まりだった。初対面の席で、私が仕事で扱っている数理モデルの美しさについて、空気も読まずにで語ってしまったとき、周囲のが引いていくなかで、彼女だけは丸い瞳を輝かせて聞いていたのだ。
「面いね。全然はわからないけれど、あなたが本当にその世界を綺麗だとっていることは、すごくよく伝わってくるよ」
笑いながらそう言われた瞬、私の胸の奥で、未定義の変数が急に決定な値を持ったかのような衝撃がった。それから交際が始まり、にこの慎ましいマンションのでふたりの活を始めた。
彼女と暮らすようになってから、私の常には予期せぬノイズが混ざり込むようになった。それは、休の朝に突然いって焼かれるスコーンの甘いりだったり、リビングの隅に飾られる季節のの名だったり、あるいは、仕事でを抱えている私の額にたいのひらをぴたりと当ててくるような、唐突な体温だった。
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最初のうちは、その曖昧さに戸惑うこともあった。けれど、いつのにか私は、その予測能な温もりにく依するようになっていたのだ。彼女が嫌よくずさむ声や、失敗した煮物をにして眉をの字にする表は、いかなる微分方程式を用いても解くことのできない、けれど世界で最もおしい謎だった。
ただ、ひとつだけ、私自のなかで澱のように溜まり続けている負い目があった。
私は、気持ちを言葉にするのが絶望にだった。
「好きだよ」とか「している」といった、世の恋たちや夫婦が軽やかににする台をにすると、私の喉はいつもく張ってしまう。その言葉の定義が曖昧すぎるようにえて、にすのが気恥ずかしく、あるいは嘘っぽく響いてしまうのではないかと怯えてしまうのだ。彩が記や誕に、作りのメッセージカードに柔らかなきの文字で真っ直ぐないを綴ってくれるたび、私は「ありがとう、私も切にっているよ」と、どこか業務連絡のような、無難でたい返事しか返せないできた。
彩はそんな私の器用さを責めることは度もなかった。ただ、し寂しそうに、けれど慈しむように微かに目を細めて笑うのだ。