"父親欄の黒い斜線" 第7話
【07】「たった晩で、父親ヅラしないで」
午。
私はホテルのチェックアウトを済ませ、自宅のマンションに戻ってきた。
鍵を回し、玄関のドアをける。
を踏み入れた瞬、をついたのは、饐えたミルクの臭いと、使い古された湿布のような淀んだ空気だった。
リビングへ向かう廊には、丸められたおしりふきが点々と落ちている。
キッチンカウンターには、ミルクの缶がフタをけたまま放置され、シンクには底にい膜が張った哺乳瓶が本、乱雑に転がっていた。
そして、リビングの央。
カーペットのに敷かれたい毛布ので、拓也がのような顔をして座り込んでいた。
目のには赤黒いクマが張り付き、無精髭が伸び放題になっている。
その腕のには、着替えさせられたもののボタンの掛け違いだらけのを着た陽菜が、々しく眠っていた。
ガチャリ、と私の靴音が鳴った瞬、拓也の首がギシギシと音をてるようにこちらを向いた。
「……美咲」
その声は、掠れて掠れて、まるで砂を噛んでいるようだった。
拓也はふらつきながら、ちがろうとした。
だががもつれ、膝をに打する。
「美咲……見たか……? 俺、やったぞ……」
拓也の瞳に、奇妙なが宿っていた。
それは過酷な試練を耐え抜いた者特の、傲な達成だった。
「も……秒も寝てない。
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陽菜が泣くたびに抱っこして、オムツも回替えた。ミルクもませた。……俺、で朝までやりきったぞ」
拓也は乾いた唇を吊りげ、懇願するように私を見げた。
「だから……もういいだろ? 俺だって本気配せばできるんだ。おの言う通り、変なのは分かったよ。骨に染みた。だから……あの契約、破棄してくれ。引っ越しなんて、やめてくれよ」
彼は本当に信じているのだ。
この獄のようなを耐え抜いたのだから、自分は許される権利をに入れたのだと。
私は無言のまま、拓也の元へ歩み寄った。
そして、腕のから陽菜を静かに抱きげた。
娘の体を確かめる。
太ももの付け根を触ると、湿り気を帯びてたくなっていた。オムツのサイズわせが狂っていて、皮膚が赤く擦れている。
首元をめくると、拭き取られなかった吐き戻しのミルクが皮膚のシワに溜まり、痛々しい赤みを作っていた。
私は洗面所からぬるま湯で絞ったガーゼを持ってきて、丁寧に陽菜の首元を拭いた。
しいオムツを取りし、く、確にギャザーをてて穿かせ直す。
肌着を脱がせ、乾いた清潔なに着替えさせた。
その、私は言も発しなかった。
拓也が私の沈黙に耐えかねたように、声を荒らげた。
「おい! なんで何も言わないんだよ! しは認めてくれたっていいだろ!? 俺は会社でい目で見られて、徹夜でここまでやったんだぞ!」
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私は陽菜を抱いたまま、ちがった。
そして、にへたり込む拓也を、氷のような線で見ろした。
「拓也」
「な、何だよ……」
「たったの晩よ」
部の空気が、ピシリと凍りついた。
「……え?」
「あなたは、たったの、誰かに言われて用されたミルクとお湯を使って、子どもをかしておいただけ。それなのに、まるでエベレストでも登頂したみたいに誇らしげね」
私の声には、りすら混じっていなかった。ただ、徹な事実だけがあった。
「私はね、この活を、ぶっ通しでやってきたの。股の傷が裂けそうな痛みに耐えながら、血がにじむ乳首を噛まれて涙を流しながら、誰の助けもなく、朝が来ても交代してくれるなんてもいない絶望ので」
拓也が息を呑む。
「あなたは晩徹夜しただけで『俺はやった』『だから引っ越しをやめろ』と求するのね。自分のその努力を、私をに縛り付けるための交渉カードに使うのね」
「ち、違う、俺はただ……!」
「違わないわ。あなたのにあるのは、陽菜の健やかな成じゃない。自分が『いい夫』『いい父親』のポジションに戻ることだけよ」
私は背を向けた。
「あとよ。予定通り、曜の朝にていくわ」
「美咲!!」
拓也の鳴のような叫びを背に受けながら、私は陽菜を連れて寝へ入り、内側から静かに鍵をかけた。