"誰も売るなと育てた父" 第15話
温まらない烏龍茶
「待つのをやめた……?」
父のから、掠れた疑問が漏れた。
「ええ」
久美は布製の提げバッグの持ちを指先でえながら、淡々と言葉を継いだ。
「夜逃げしたあともね、私のはちっとも楽にならなかったわ。母は体を壊して借だけが残り、私はを諦めて朝から晩までみ込みで働いた。結婚もしたけれど夫には逃げられ、子どもをで育てるために、毎毎、指の皮が擦り切れるまでアイロンを握り続けた」
久美の線が、父の着ている仕てろしのスーツを静かに撫でた。
「賃をどう払うか、の米をどうするか……そんな毎に追われていたらね、代の男の子が自分を裏切ったことなんて、考えている暇もなくなったのよ。、あなたへのみを抱えてきていられるほど、私の暮らしは暇じゃなかったの」
残酷なまでの現実だった。
父にとってはを呪縛し続けた巨な字架が、久美の過酷な現実のでは、通り過ぎたひとつのに過ぎなかった。
「だからね、君。私はあなたを許しに来たんじゃないわ。『いいのよ、昔のことだから』なんて、っぺらい言葉であなたを救ってあげる気は、これっぽっちもないの」
父は唇を噛み締め、じっとその言葉を受け止めていた。
「でもね」
久美はそこで、ほんのわずかに元を緩めた。
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それは微笑みと呼ぶにはあまりに微かで、けれど確かな体温を含んだ表だった。
「今、あなたがここに来て、黒田たちに調子をわせるでもなく、当の苦しさを言い訳にするでもなく……自分の卑怯さを認めてをげたこと。……それは、何も言わずに墓まで持っていくより、ずっと良かったわ」
父の喉仏が、きくした。
「それだけは、認めてあげる」
久美はそう言い終えると、布バッグを抱え直した。
「幹事さん、誰かしら」
久美が声をかけると、受付にいた同級の女性が慌てて駆け寄ってきた。
「は、はい! 川さん、どうしたの?」
「会費の万円、受付に置いてあるから。私、これで失礼するわ」
「えっ、もう帰るの!? まだ乾杯も始まってないし、料理もこれから……」
「パートの夜勤があるのよ。昔の顔を見られたから、もう分」
久美は引き止める幹事の声を背で受け流しながら、誰にも会釈することなく、に向かって踵を返した。
その取りは、の駅のホームで見たという女の面とは違い、自分のでを踏みしめてきたの、迷いのないさに満ちていた。
すれ違いざま、黒田が何か言いたげにをきかけたが、久美の徹な瞥を受けると、気圧されたようにを閉ざした。
父は、追わなかった。
の夕暮れ、駅の網フェンスにしがみついてち尽くしていたは、もうそこにはいなかった。
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父は背筋を伸ばしたまま、っていく久美のろ姿を、静かに見送っていた。その両肩から、背負い続けていた見えない荷が、音をてて滑り落ちていくのが分かった。
「……」
沈黙に耐えかねたように、内が声を絞りした。
「お……」
父は振り返らなかった。テーブルのに置かれていたウーロン茶のグラスを気にみ干すと、ポケットから財布を取りし、万円札を枚、円卓の央に置いた。
「俺も、これで失礼する」
父の声は、驚くほど静かで、平穏だった。
「内、野。息子に連絡させて、余計な気を使わせたな。悪かった」
それだけを言い残すと、父は誰の顔も見ることなく、へと歩きした。
同級たちは、誰も父を呼び止めようとはしなかった。彼らが守ろうとしていた「美しい青のい」という名のメッキは、父が晒した剥きしの罪と、久美の乾いた現実によって、修復能なほど々に砕け散っていた。
宴会の扉を押しけて廊にてきた父の線が、円柱のにっていた私を捉えた。
父は驚いたようにち止まった。
私はのに握りしめていた黒い鏡ケースを、父に向かってそっと差しした。
「……忘れてたよ」
父は自分の胸ポケットを触り、それから私ののの鏡ケースを見つめた。
目元を緩め、歳の職の、いつものし困ったような顔に戻って言った。
「健太。……帰ろう」