"誰も売るなと育てた父" 第2話
結びかけの靴紐
曜の朝、午分。
台所からは、油揚げと葱の噌汁が煮つ微かな匂いが漂っていた。父は毎朝、誰に言われるでもなくに起き、自ら朝を用してでべる。母親を私が学の頃に病気でくして以来、父はこのさな建売宅の事を淡々と、狂いなくこなしてきた。
玄関先で、父が作業靴にを滑り込ませる音がした。
私はパジャマのまま廊へた。父は玄関のがり框に腰をろし、黒い全靴の紐を締め直しているところだった。今のも、錦糸町にあるオフィスビルの配管点検に向かうと言っていた。
「父さん」
呼びかけると、父は屈んだ姿勢のまま、線だけをこちらに向けた。髪の混じったい眉のに、いつも通りの静かな目が覗いている。
「なんだ、健太。まだ寝てていいだろ」
「……聞きたいことがあって」
私は壁に肩を預け、努めて何気ないトーンを装いながら言葉を選んだ。夜に届いたあの湿なメッセージの文面を、そのままぶつける勇気はまだなかった。
「父さんののクラスにさ、『久美』って名の、いた?」
その瞬、父の両が止まった。
靴紐を交差させ、輪を作ろうとしていた太い指先が、空でピタリと直した。
首を傾げて記憶をまさぐるような仕ではない。
何かの衝撃音を至距で浴びたが、反射に筋肉を張らせたような、完全な静止だった。
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玄関の古い柱計が、コチ、コチと無質な秒針の音を刻む。わずか秒か秒の空。だがその沈黙は、私にとって耐え難いほどかった。
父はゆっくりと息を吐きすと、線を靴紐からさないまま、結び目をぎゅっと力任せに引っ張った。革が擦れる鈍い音が響く。
「……らんな。覚えてない」
声が、掠れていた。
「本当に? ほら、の途で転したっていうか、学を辞めた女子徒で……」
「覚えてないと言ったら、覚えてないんだ」
父は私の言葉を遮るようにちがった。その声のさに、私はわずを閉ざした。普段、誰に対しても声を荒らげることのない父が、確な拒絶の志を全から放っていた。
父は壁にかけてあったヘルメットをに取ると、度も私の顔を見ることなく、鉄製のい玄関扉にをかけた。
「今は定でがる。……の準備もあるからな」
ガチャリと鍵が閉まる属音が、朝の静まり返った廊にたく響き渡った。
嘘だ。
父は覚えている。覚えていないの反応ではなかった。「久美」という文字を聞いた瞬、父の顔から血の気がサーッと引いていくのを、私はこの目で確かに見た。
私は自へ駆け戻り、ベッドのに放りされていたスマートフォンを掴み取った。
会社には「体調良のため午から社する」
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といメールを送った。こんな得体のれない疑を抱えたまま、普段通りにパソコンのに座れるはずがなかった。
昨夜、最初にメッセージを送ってきた「内誠」。
プロフィール欄を確認すると、都内の建設コンサルタント会社に勤務しているらしき記述と、古い名刺の画像が設定されていた。そこには携帯話の番号が記載されている。
迷いは数秒だった。私は番号をタップし、発信ボタンを押した。
元で、プルル、プルルと単調な呼びし音が鳴る。回、回。拒否されるかとった回目のコールの、カチリと通話が接続された。
『……もしもし。健太さんですね』
く、疲労の滲んだの声だった。私の番号を登録して待っていたかのような、迷いのない応答だった。
「内さんですね。昨夜のメッセージについて、直接お話しさせてください」
私は拳を固く握りしめながら、え切った自の窓枠に向かって言い放った。
「父は何も覚えていないと言いました。あなたたちはいったい、何のために父を脅迫しているんですか」