"私を捨てるはずだった夫" 第10話
私を言い訳にしないで
凍うどんを茹でる鍋の湯気が、狭いキッチンの換気扇に吸い込まれていく。
私は無言でめんつゆをめ、刻みネギを皿に盛った。
背のリビングからは、テレビの音すら聞こえない。
丼をつお盆に載せ、リビングのさなローテーブルに置いた。
美咲は正座したまま、じっと自分の膝を見つめていた。
直は壁際に寄りかかり、腕を組んで目を閉じている。
「美咲、めないうちにべて」
「……お母さん」
美咲は割り箸を割ろうとしなかった。
顔をげ、私をまっすぐに見据えてきた。
「何かあったんでしょ」
く、落ち着いた声だった。
「隠さなくていいよ。入ってきたから、とも空気がおかしかった。無理して笑ってるの、見てて痛々しいんだけど」
「美咲、何でもないんだ」
直が慌ててを挟んだ。
「引っ越しで疲れてるだけだよ。ほら、うどんが伸びるから――」
「お父さん、黙ってて」
美咲の鋭い声が、直の言葉を遮った。
直が息を呑み、を噤む。
私はく息を吸い込んだ。
胸の奥で、何かが静かに決壊していく音がした。
ここでまた「何でもない」と笑って誤魔化すことは簡単だった。
父親の体面を守り、庭の平穏という張り子の虎を維持するために、私がを被れば済む話だった。
、ずっとそうしてきたように。
けれど、もう限界だった。
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この子ので「仲の良い両親」を演じ続けることが、どれほど自分を、そして夫を惨めにしているか。
「美咲」
私は直の制止するような線を無して、静かにをいた。
「お父さんね、昨、で荻窪のワンルームに引っ越すつもりだったの」
「由美!」
直が鳴のような声をげた。
ちがりかけた直の肩を、私はたい目で見据えた。
「隠して何になるの? この子はもう歳よ。畳半に敷かれたあなたの布団を見て、何も気づかないとでもってたの?」
直は顔を真っ青にしてち尽くした。
美咲は驚いたように目を見いたが、泣き叫んだり、取り乱したりはしなかった。
ただ、直の顔をじっと見つめた。
「荻窪に……?」
「ええ。ヶから部を探して、付も払って、用の蔵庫まで買ってたの。昨の朝、ののさんに言われて、私、初めてったのよ」
「……なんで?」
美咲の問いかけは、直に向けられていた。
声は震えていなかった。信じられないほど徹だった。
直は喉を鳴らし、苦しそうに線を彷徨わせた。
「美咲……違うんだ。おを捨てるつもりなんてなかった。ただ、おがいなくなって、でいるのが息苦しくて……。でもな、おが週に『私の本棚を置いておいて』って言っただろ。あの言葉を聞いて、俺、目が覚めたんだ。おの帰る所をなくしちゃいけないって……だから解約したんだ」
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直は必だった。
自分は娘をい留まったのだと、父親としてのがあったから踏み止まったのだと、娘に縋り付くように訴えかけた。
だが、美咲のからたのは、直が期待していたであろう堵の言葉ではなかった。
「最」
吐き捨てるような言だった。
「お父さん、私を言い訳にしないでよ」
美咲の瞳に、軽蔑のが浮かんでいた。
「私が帰る所を守るため? 嘘ばっかり。お父さんはただ、私に『族を捨てた悪い父親』ってわれるのが怖かっただけでしょ」
直の体が、目に見えて縮こまった。
「私の本棚なんて、どうでもいいよ。そんなもののために、お母さんを騙して、自分を騙して、この狭い部に連れてきたの? ……そんなの、優しさでも何でもない。ただの臆病じゃん」
直は何も言い返せなかった。
唇を刻みに震わせ、両を固く握りしめたまま、娘のにち尽くしていた。
そして、美咲の線が、ゆっくりと私へと移った。
その線は、直に向けられたものよりも、さらに鋭く私の胸に突き刺さった。
「でお母さん、あなたはどうなの?」
私の臓が、ねがった。
「お父さんが勝に部借りてたのは最だよ。……でも、お母さんは? お父さんがていくってった、本当にしかっただけ?」
美咲の言葉が、私の喉を塞いだ。
「お母さんだって、ずっと息苦しそうだったじゃん。
私がいなくなったら、で何話していいか分からない顔してた。……お父さんがていってくれたら、本当はしホッとしたんじゃないの?」
私は言も発することができなかった。
昼、駅の喫茶でわったあの甘美な自由への渇望を、歳の娘は、完璧に見透かしていた。