"私を捨てるはずだった夫" 第8話
曜のと玄関のキャリーバッグ
「し、てくる」
午、私は財布とスマートフォンだけをさなショルダーバッグに入れ、直にそう告げた。
靴箱の横に置かれたままの、写真てが入ったゴミ袋を踏み越えるようにして、玄関のドアをけた。
直はリビングのに座ったまま、「ああ」とだけさく答えた。引き留める気力も残っていないようだった。
駅のロータリーにると、の澄んだが頬を打った。
買い物帰りの親子連れや、を繋いで歩く若いカップルが、私の横を通り過ぎていく。
その誰もが、当たりのように以の活を信じている顔をしていた。
私は駅の雑居ビルの階にある、チェーンの喫茶に入った。
曜の午にしては珍しく奥の禁煙席が空いていて、私は窓際のさな掛けの席に腰をろした。
頼んだアメリカンコーヒーは、百円玉枚としのっぽいがした。
窓のを見ろすと、駅の改札から吐きされてくる々の波が見えた。
私はそこで、座り続けた。
スマートフォンは度も鳴らなかった。
直からの連絡も、美咲からのLINEもなかった。
コーヒーはとっくにめ、表面にい膜が張っていた。
最初は、直に対する憎しみばかりがを巡っていた。
なぜあの男は、あそこまで卑怯になれるのか。
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なぜも連れ添った相に、言の相談もなく逃げを作れるのか。
私を何だとっているのか。
けれど、が過ぎ、窓のの空が茜から濃紺へと沈んでいくのを見つめているうちに、私の考は別の所へと滑りしていった。
――もし。
もし、直があのまま荻窪のワンルームへていっていたら、どうなっていただろう。
臓が、トクンと嫌なね方をした。
残された私は、泣いただろうか。
親族や美咲にどう説するか、を抱えて途方に暮れただろうか。
もちろん、最初はそうだろう。世体や、の積みねを否定された屈辱で、夜も眠れなかったはずだ。
だが、その先は?
ふっと、胸の奥底から、信じられないほど甘美で恐ろしい像が湧きがってきた。
直がいなくなれば、平の夜、を過ぎても夕飯の支度を気にしなくていい。
彼が好むの濃いおかずではなく、自分がべたい野菜スープとパンだけで済ませられる。
休の朝、彼が起きてくる音に怯えて、慌ててベッドから抜けす必もない。
脱ぎっぱなしの靴を拾うことも、嫌そうにテレビのチャンネルを変える横顔を伺うこともない。
自由だ。
それは、美咲を産んでからの、私が度もわったことのない、完全な「」の活だった。
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背筋がゾッとした。
たい汗が、背をツーと伝い落ちていく。
私は、直を責めていた。
勝にで逃げそうとした彼を、「最だ」「卑怯だ」との底から罵っていた。
けれど、私自はどうだったのか。
私もまた、美咲がていったあのがらんとした部で、直の背を見ながら、「このがいなくなれば、どれだけ楽だろう」と、無識のうちに願っていたのではないか。
直はに移すだけの酷さと決断力(そして最には挫折するさ)を持っていた。
私は、その酷さすら持てず、ただ被害者の顔をして、同じ檻ので息を潜めていただけだったのではないか。
「……何やってるんだろう、私」
め切ったコーヒーを気にみ干した。苦だけが舌のにへばりついた。
計を見ると、午を回っていた。
私は伝票を掴み、逃げるように喫茶をた。
夜の空気はえ込み、く々はコートの襟をてていた。
スーパーのかりに吸い寄せられるように入り、値引きシールの貼られた惣菜のパックと、の朝のヨーグルトを買った。
活を維持するための買い物をしている自分に、吐き気がした。
どれだけが引き裂かれていても、の朝には腹が減るのだ。
駅から歩いて分。居のマンションが見えてきた。
階の角部――私たちの部の窓には、かりが灯っていた。
あの部に帰らなければならない。
自分の卑怯さと、夫の卑怯さが充満した、あの狭い空へ。
い取りで階段をがり、階の廊をんだ。
角を曲がったところで、私はを止めた。
部のドアのに、誰かがっていた。
ベージュのトレンチコートを着て、元には見覚えのある桜の型キャリーケースが置かれている。
背格好ですぐに分かった。
「……美咲?」
私が声をかけると、スマートフォンを操作していたそのが、勢いよく顔をげた。
「あ、お母さん! どこってたの? 鍵まだもらってないから、分も待っちゃったよ」
美咲が、学特のし甲い、屈託のない笑顔で笑いかけてきた。
その無防備な笑顔を見た瞬、私の元から、すうっと血の気が引いていった。