みかん小説
本棚

"私を捨てるはずだった夫" 第3話

荻窪のワンルーム

直はちがりかけた姿勢のまま、秒ほど静止した。

それから、諦めたようにゆっくりと腰を段ボールのに戻した。

夕暮れの赤いが、カーテンのない窓から差し込み、彼の横顔を濃いで半分に割っていた。

歳になって目元に増えたじわや、しくなった頂部が、そのので残酷なほど鮮に見えた。

見慣れた、疲れた男の姿だった。

「……佐藤さんの聞き違いじゃ、ないのね」

私がねて言うと、直は線をの目に落としたまま、さく息を吸った。

「荻窪だ」

返ってきたのは、拍子抜けするほど具体な名だった。

「荻窪」

「ああ。駅から歩いて分の、築のワンルーム」

「……借りてたの?」

「付は払った。契約も、度はいた」

臓のあたりが、たいにじわりと浸されていく覚があった。

りよりも先に、奇妙な現実が胸を締め付ける。

荻窪。

央線で駅先だ。

私がパート帰りにち寄るカルディもあるし、美咲が代に通っていた塾もあった。

そんな所に、夫は自分だけのを作ろうとしていたのだ。

「いつ、解約したの」

「週だ」

「なんで?」

「……なんで、って」

直は初めて私を見た。

その瞳には、申し訳なさや罪悪ではなく、困惑のような、自分でも説のつかないを持て余しているようなが浮かんでいた。

広告

「なんで急に、そんなこと……。女のでもいるの?」

からた瞬、自分で自分の言葉の陳腐さに吐き気がした。

けれど、それ以に夫がをていく理由を、私の乏しい経験はいつけなかったのだ。

「いないよ」

直は即座に否定した。

声に嘘をついている様子はなかった。

「そういうんじゃない。……ただ、息が詰まりそうだったんだ」

「息が詰まる?」

私はわず声を尖らせた。

「私があなたを息詰まらせてたって言うの? 私が何かした? ご飯を作らなかった? おを無駄遣いした? あなたの休に文句を言った?」

「そうじゃない」

直は首を振った。

苛った様子はなく、ただひどく疲れているようだった。

それが余計に私を苛たせた。

「責めてるわけじゃないんだ、由美。おはちゃんとやってたよ。完璧なくらいにな。……でもさ、美咲がていってから、のがどんなだったか覚えてるか?」

私は言葉を詰まらせた。

からの半。

朝、直が起きてきて、トーストとコーヒーをす。

彼はスマホでニュースを見ながらそれをべ、「ってきます」と言ってる。

夜、かに帰ってきて、で温め直したおかずをべる。

私はその横でのゴミしの分別をしたり、美咲からのLINEに返信をしたりする。

「今週末、トイレットペーパー買っとかないとね」「ああ」

「来週の曜、点検で業者入るから」

広告

「わかった」

会話はそれだけだった。

喧嘩もなければ、笑い声もなかった。

「このままであの部にいたらさ、あと、俺たち何のために緒にいるのか分からなくなるとったんだ」

直は淡々と続けた。

「おが俺を見てないのも分かってたし、俺もおに何を話しかけていいか分からなくなってた。だから、度れた方がいいんじゃないかって、そうったんだよ」

理屈としては、理解できてしまう自分がいた。

それが何よりも悔しかった。

私も同じように、美咲がいなくなったリビングで、直の背を見ながら「このとこれからきりで、何を話せばいいんだろう」と途方に暮れていた夜が何度もあったからだ。

けれど。

「だったら、なんで相談しなかったの?」

私の声が、喉の奥でひび割れた。

「『れたい』って、なんで私に言も言わずに、で部探して、で退届して、全部決めてから言おうとしたのよ。私は、あなたの何だったの? ただの同居? 業務連絡する相?」

直はを噤んだ。

窓ので、く央線のの通過音がゴトゴトと響いた。

部のは、すっかり暗くなっていた。

「言ったらさ」

い沈黙のあと、直が絞りすように言った。

「おが引き留めるか、それとも『いいよ』ってあっさり言うか、どっちか分からなかったからだ」

私は息を呑んだ。

「引き留められたら、俺は罪悪で押し潰される。でも……『いいよ、そうしよう』って言われたら、俺は本当に、これまでやってきたことが全部無駄だったんだって、いらされる気がしたんだ」

勝だ。

あまりにも勝な言いだった。

どちらに転んでも自分が傷つきたくないから、ぎりぎりまで隠して、で逃げそうとしていただけではないか。

「……じゃあ、なんで戻ってきたのよ」

私は拳を握りしめ、爪をのひらにい込ませながら言った。

「なんで荻の部をキャンセルして、私と緒にここに来たのよ。結局、できていく勇気もなかったわけ?」

直は答えなかった。

ちがり、私の横をすり抜けて玄関へ向かった。

「……コンビニ、ってくる。適当に買ってくるから」

ガチャリとドアが閉まり、音がざかっていった。

私は段ボールの隙に崩れ落ちるように座り込み、暗い部の井を見げた。

涙はなかった。

ただ、胸の奥底に、焼けつくような屈辱だけが広がっていた。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: