"私を捨てるはずだった夫" 第1話
奥さんも緒なんですね
暮らした杉並区のマンションは、すっかりがらんとしていた。
作業を着た引越し業者の若い男性が、慣れたつきで次々と段ボールを台に載せていく。
養用の青いテープが壁に貼られ、剥がされるたびに、バリバリと乾いた音が廊に響いた。
「奥さん、キッチンの吊り戸棚、もうは空ですか?」
「あ、はい。今、最を拭き終わりました」
雑巾をゆすぎ、絞る。
荒れ止めを塗る暇もなかった指先が、たいでし赤くなっていた。
私、由美は今で歳になる。
夫の直は歳。
に娘の美咲が都内の学に学し、学寮に入った。
で暮らすにはちょうどよかったLDKのこの部も、夫婦だけになると、どうにも持て余してしまう。
賃も更のたびにしずつがっていた。
とも代の音が聞こえる齢になり、駅から徒歩分のり坂がきつくなってきたこともあって、私たちは駅のし狭なLDKへ引っ越すことを決めた。
居を探してきたのは直だった。
いつもなら、賃の更通が届いても「由美に任せるよ」と封筒を放りすようななのに、今回は違っていた。
「駅の物件、ちょうど空きがたんだ。今のところより賃も万浮くし、スーパーもい」
広告
珍しく取り図を何枚もプリントアウトし、内見の続きまで自分で済ませてきた。
具の廃棄続きも、引越し会社との相見積もりも、すべて直が率先して片付けた。
子育てが終わって、これからはで気楽に暮らしていこうという夫なりの向きな気持ちなのだろうと、私は疑いもしていなかった。
「おーい、由美。そっちの押し入れの装ケース、もう運んでいいのか?」
リビングから直の声がした。
「いいよ、はテープで止めてあるから」
直は休に着古したグレーのポロシャツの袖をまくり、汗を拭いながら段ボールを抱えていた。
結婚して。
きな浮気も借もなく、激しい鳴りいをしたこともない。
ただ、会話のほとんどが「美咲の塾代」や「週末の買いしの予定」に消えていき、いつのにか私たちは、夫婦というより同じ会社で事という業務を分担する同僚のようになっていた。
それでも、こうしてでしい活を始めるのだから、悪くない半戦になるはずだった。
ガタガタと廊の鉄扉がき、の佐藤さんが顔をした。
代半ばの気さくな男性で、退のち会いと鍵の返却の確認に来たのだ。
「さん、お疲れ様です。ずいぶん片付きましたねえ」
「佐藤さん、いお世話になりました。敷のこと、ほどよろしくお願いしますね」
広告
「はいはい、綺麗に使っていただいてたから、ほとんど戻るといますよ。……それにしても」
佐藤さんは、リビングから運びされていくつの装ケースと、私の元にある段ボールのを見回して、ふっと目を細めた。
「奥さんも緒に引っ越すんですね」
台所のシンクを拭いていた私のが、ぴたりと止まった。
「え?」
振り返ると、佐藤さんは悪気のない柔らかな笑顔を浮かべていた。
「奥さんも、ご緒だったんだなとって」
「……はい。で駅のマンションに移るんです」
「ああ、そうでしたか」
佐藤さんはい眉をし寄せ、首をかしげた。
「いやあ、のご主が先、退の届をしにうちの事務所に来られたね。『自分でていくことになった』っておっしゃってたもんだから。てっきり別居でもされるのかと、余計な配をしちゃいましてね」
元のが、すっと数センチ沈み込んだような気がした。
「……で?」
「ええ、確か先のでしたよ。用の理由欄にも、おで退って……」
佐藤さんが言葉を途でみ込んだ。
私の表が、あまりにも凍りついていたからだろう。
「あ、いや、私の勘違いだったかな。を取るとがくていけませんね、はは」
気まずそうにごまかそうとする佐藤さんの線の先を追うように、私はゆっくりと首を巡らせた。
廊の突き当たりに、直がっていた。
には、ガムテープで封をされた型の段ボール箱をつ、しっかりと抱えている。
目がった。
直の喉仏が、さくにいた。
彼は弁解することも、佐藤さんの言葉を笑いばすこともなく、ただい顔配りのまま、私を見つめ返していた。
箱を抱える指先が、くなるほどくい込んでいた。
「さん、トラック、次でラストになりますけどー!」
の階段から、引越し作業員の声が響いた。
の涼しいはずのが、け放たれた玄関から吹き込み、私の剥きしの首筋を撫でていった。