"私の遺産を仕分ける夫" 第12話
散らばった見積ので
事務所の窓ので、たいがぽつぽつとガラスを叩き始めた。
敬は肩を落とし、散らばった類のを見つめたまま、言も発することができなかった。
、度も逆らったことのなかった妻が、自分のであるで、誰よりも鋭く、誰よりも正確に自分の急所を射抜いたのだ。その衝撃から、夫のはまだち直れていないようだった。
「……もう、いい」
敬が、掠れた声で呟いた。
「敬さん」
「もういいって言ってるだろ!」
敬は力なく叫んだが、その声には先ほどの威圧は欠片も残っていなかった。ただの、駄々をこねる子供の鳴だった。
「どうせおはをす気はないんだ! 俺を棒扱いして、見して、嘲笑いに来たんだろ! 分かったよ! ていけ! 度とここへ来るな!」
そのとき、事務所の黒話がけたたましく鳴り響いた。
ジリリリリリン、ジリリリリリン。
狭い部のに、属なベルの音が響き渡る。
敬はビクッと肩を震わせ、受話器を見つめた。まるで、それが限爆弾であるかのように、を伸ばすのを躊躇っている。
度目のコールのあと、敬はい取りで机にづき、震えるで受話器を取った。
「……はい、牧瀬印刷です」
相の声は、受話器の隙から漏れて私のにも微かに届いた。
質で、事務で、え切った男の声。
広告
『あ、牧瀬社ですか。都リースです。過お申し込みいただいておりました、オンデマンド印刷の導入リースの審査結果の件ですが』
敬の背が、ぴんと張り詰めた。
「……は、はい! 牧瀬です。どうなりましたでしょうか。の方は、なんとか面する目処がちまして——」
『申し訳ありませんが、今回の案件、社内審査で見送りとなりました』
受話器の向こうの言葉は、あまりにも淡々としていた。
『直期の決算を精査させていただきましたが、貴社の現の債務超過状態、ならびに丸製菓様との取引終による売減を鑑みますと、百万円のを入れていただいたとしても、々のリース料のお支払いは困難と判断いたしました。……担保となる産のご提供がない限り、本件の再審査は致しかねます』
「そ、そんな……! 待ってください! 械さえ入れば、仕事は取れるんです! 私が直接、しい客を回って——」
『牧瀬社、これ以の議論は無です。失礼いたします』
ツーツーツー。
無質な通話終音が、事務所のに虚しく響き渡った。
敬は受話器をに当てたまま、しばらくの、のように固まっていた。
やがて、ガチャン、と受話器がフックから滑り落ち、机のに転がった。
「……終わった」
夫の膝が折れ、そのに崩れ落ちるように古いソファに倒れ込んだ。
広告
を抱え、両で顔を覆う。指の隙から、さく荒い呼吸が漏れていた。
最鋭のデジタル印刷を入れれば、すべてが解決する。
その最の蜘蛛の糸が、無慈に断ち切られた瞬だった。
だけでなく、械のリース会社からも、敬のは「信用に値しない」と切り捨てられたのだ。
「……担保なんて、あるわけないだろ」
夫が、顔を覆ったまま泣きそうな声で呟いた。
「親父の代から借りてるこのも建物も、全部借だ……。自宅だって、築の古の平だ……。担保になんて、なるわけがない……」
私は黙って、に転がっていた『するが堂』の企画を拾いげた。
のいを活かした、美しいサンプルの触りが指先に伝わる。
夫は、救われるを持っていたのだ。
自分のプライドさえ捨てていれば、このさな、けれど確かなを掴むことができたはずだった。それを自ら蹴りばし、の丈にわないきなにすがって、妻の遺産をあてにしていた。
「……悪かったよ」
敬が、ぽつりと言った。
顔をげた夫の瞳には、先ほどのりの炎は消え失せ、底なしの絶望と虚無だけが広がっていた。歳の男の顔が、まるで晩でも歳をとったかのように萎びて見えた。
「おの言う通りだ。俺は……代遅れの、無能な経営者だ」
夫は自嘲するように元を歪めた。
「は持っておけ。もう円もくれとは言わない。……どうせ百万あったところで、械すら買えないんだ。最初から、全部俺の妄だったんだよ」
敬はく息を吐きし、井の蛍灯を見げた。
「来、弁護士のところへく。自己破産の相談だ。を畳んで、械を屑鉄に売って……従業員にも退職を払って解散する。……俺のは、ここで終わりだ」
そう言って、夫は目を閉じた。
その横顔には、すべてを諦めたの、痛々しいほどの静寂が張り付いていた。
妻に遺産を求するのを、夫は完全に諦めた。
もう度と、私の通帳を覗き込もうとはしないだろう。
私は自分のおを守り、夫の理尽な求を完全に退けたのだ。
けれど、私の胸のに広がったのは、勝利のではなかった。
散らばった見積と、油の匂いと、この男を支え続けてきた私ののひらの記憶。
そのすべてが、え切った事務所の空気ので、く沈んでいた。
私はドアのノブにをかけた。
サッシの向こうでは、武藤さんと佐々くんが、そうにこちらを見つめていた。
本当に、これで終わりにしていいのだろうか。
私は夫のづるになることを拒絶した。それは正しい。
けれど、自分の志で、自分のでこの所にった今、私はこのの結末を、ただ夫が破滅していくのを眺めるだけで見届けるのだろうか。
「……敬さん」
私は背を向けたまま、静かに呼びかけた。
夫は答えず、ただ微かに肩を揺らした。
がまり、スレートの根を激しく叩く音が、私たちのの最の沈黙を包み込んでいた。