"私の遺産を仕分ける夫" 第9話
青い作業着の背
翌朝、のアラームが鳴るに目を覚ました。
隣の布団は、昨夜から敷かれたままたくなっていた。
居の卓には、ちぎったメモ用が枚だけ置かれていた。
『に泊まる。飯はいらない』
殴りきのような、乱暴な夫の文字だった。
私はいつも通り、台所にって湯を沸かした。
けれど、噌を溶く鍋のにっても、夫の音は聞こえてこない。湯気がふっと落ち着く温度を測る相がいない卓は、ので初めてだった。
お椀に注いだ噌汁を、で無言のままみ干した。
のしない朝を片付けたあと、私はさな呂敷包みを用した。には、所の菓子で買った持ちのする羊羹と、父のでいただいた煎茶の缶を入れた。
午。
私は沼津駅のから、港へと続く産業を歩いていた。
に混じって、わずかに磯のりとトラックの排気ガスがをつく。古い造とさな鉄所が入り乱れるの奥に、見慣れた板があった。
『牧瀬印刷所』
先代が建てたスレート葺きの平建てのだ。
トタンの壁はところどころ錆び、入のアルミサッシは茶く燻んでいた。
の、私はこの所を夫の神聖な仕事として敬い、邪魔をしてはいけないと信じ込んで度もを踏み入れたことがなかった。
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ガラガラ、とサッシの引き戸をけると、械油と鉱物性インクの、ツンとを刺す匂いが気に押し寄せてきた。
ガシャン、ガシャン、ガシャン。
規則正しい属の打撃音が、のに反響している。
暗い作業の央で、巨な緑のオフセット印刷が唸りをげてを吸い込んでいた。その横で、濃紺の作業着を着た柄な初老の男性が、刷りがったばかりのの束をに取り、蛍灯のに透かしてじっと睨んでいる。
武藤さんだった。
先代の社の代からくこのを支え、敬が若い頃から職として付き添ってきた、のようなだった。
「……武藤さん」
械の音に負けないよう、私はし声を張った。
武藤さんが驚いたように顔をげ、元のを置いた。
「……あれ? 奥さん……? どうしたんです、こんなところへ」
「ご無汰しております。急にお邪魔してごめんなさい」
私は呂敷包みを両で差しした。
「敬さんは、いらっしゃいますか?」
武藤さんは作業着の胸元でを拭きながら、困ったように線を泳がせた。
インクと油が染み付いたその指先は、ひどく荒れてひび割れていた。
「社なら、さっきへくって言ってかけましたよ。……奥さん、社から何か聞いてますかい?」
「いえ。昨夜からに泊まり込んでいたみたいで、配になって様子を見にきたんです」
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武藤さんはため息をつき、の奥にあるガラス戸で仕切られたさなプレハブを指差した。
「あがってください。お茶くらいしかせませんが」
事務所のは、の踏みもないほど類や見本誌が積まれていた。
古いパイプ子、黄ばんだ壁、皿に盛りにされたタバコの吸い殻。部の隅には、使い古された万毛布が無造作に丸められていた。夫は昨夜、このい革張りの子で寝たのだろう。
「奥さん」
やかんから注いだほうじ茶をしながら、武藤さんが静かに言った。
「社、かなり焦ってますよ。丸製菓の仕事が切れてから、目のが変わっちまった。昨夜も夜まで、京の械のカタログを広げて計算を叩いてました」
「……最型の、デジタル印刷の話ですか?」
武藤さんは眉をひそめ、首を横に振った。
「あの械を買えば巻き返せるって、社は本気でい込んでる。でもね、奥さん。現の俺から言わせてもらえば、あれは毒ですよ。百万もかけてあんなものを入れたところで、うちみたいな請けに仕事が回ってくるわけがないんです」