"私の遺産を仕分ける夫" 第1話
湯気の消える
私の朝は、ずっと午に始まる。
目覚まし計の子音が鳴るに、指先でボタンを止める。隣の布団では、夫の敬がい寝息をてている。それを起こさないよう、の裏に体をかけずに起きがり、えた廊を台所へ向かう。
まず湯を沸かし、煮干しのをちぎって鍋に入れる。
噌を溶き入れるのは、夫が洗面所へ入る音が聞こえてからだ。すぎるとがぶし、遅すぎると夫が卓についたときにすぎてをつけられない。
敬が子を引き、聞を広げる瞬に、ちょうどお椀からちのぼるい湯気がふっと落ち着く。
その温度を、私の体はかけて覚えた。
「おはよう」
「おはようございます」
かわす言葉はそれだけだ。焼き魚のをほぐし、ご飯をに運び、噌汁をすする。、何千回と繰り返してきた景だった。
敬は沼津駅の側で、先代から継いださな印刷所を営んでいる。
商のチラシ、元の学の文集、町内会の広報誌。従業員はにも満たないが、元の信用でなんとか回してきた。私はずっと専業主婦で、折所のから頼まれる内職を伝う以、で働いたことはない。
私には、自分名義の通帳というものがほとんどなかった。
夫が毎渡してくれる活費の茶封筒。
広告
そこから費と費をやりくりし、残った端数を銭入れに貯める。それが私の世界のすべてだった。
けれど、ここほど、その茶封筒が目に見えてくなっていた。
以は万円入っていたものが、万になり、万になり、先はとうとう万円になっていた。
敬は何も言わない。疲れた顔で「すまんな」とも言わない。ただ封筒を卓の端に置き、作業着のまま居のソファに倒れ込む。
「最、の仕入れ値ががってな」
独り言のように夫がこぼすのを、私は台所で器を洗いながら聞いていた。
「のネット印刷に客を取られてる。元の商も、チラシを撒かなくなってきた」
私は何も問い詰めなかった。
ただ翌から、買い物の仕方をし変えた。スーパーの肉売りには寄らず、豆腐とモヤシをめにカゴに入れ、化粧をドラッグストアで番いものに変えた。夫に「今はこれだけなくて平気だから」と笑って見せた。
夫婦とは、そういうふうに片方が苦しいときはもう片方が背を丸めて耐えるものだと、本気で信じていた。
そんな折、静岡内で暮らしをしていた実の父が、歳でくなった。
母は数に界している。残されたのは、古い造の平と、父が涯かけて蓄えた預貯だった。
広告
相続は、私と、歳の妹・妙子のだけだった。
「お姉ちゃん、続きが終わったらさ」
父のを終えたあと、妙子が静岡駅の喫茶で私に言った。
「箱根の温泉、かない? だけで、泊くらいして、何もしないでぼーっとしようよ」
妙子は代で婚し、今は静岡内の会社で経理の仕事をしながらで暮らしている。
その妹の言葉に、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのをじた。
「箱根、いいね。いつ以来かしら」
「の修学旅以来じゃない? たまにはいいよ。お姉ちゃん、この、どこにもってないんだから」
父が残してくれたおは、税や諸経費を引いても、私の元に千数百万円ほど残る見込みだった。
結婚して。夫の稼ぎではなく、私の名で、私だけの座に振り込まれる、初めてのまとまったお。
贅沢をしたいわけではなかった。何かきな事業を興したいわけでもない。
ただ、妹とで箱根の湯に浸かり、誰の朝の配もせずに朝寝坊をしてみたい。
そんなささやかな願いを胸に浮かべただけで、私のはしだけ軽くなっていた。
それが、夫ののですでに別の計画に組み込まれているともらずに。