"十一時八分の「家に着きました」" 第16話
番号のにてきた顔
曜の午半。
品川駅港のオフィスビル群の片隅にある、吹き抜けの落ち着いた喫茶だった。
理の勤務先の本社ビルから歩いて分ほどの所にある。
ガラス張りの窓際の掛けの席に、私と美穂が先に座っていた。
美穂は目のに置かれた温かい茶にもつけず、膝のでハンドバッグの持ちをく握りしめていた。今朝の話で私が「理とここで会う」と伝えた、彼女は躊躇うことなく「私もく」と言った。
自ドアがき、柄なが入ってきた。
チャコールグレーのパンツスーツに、アイボリーのウールコート。
肩の違はもうほとんど目たず、背筋をすっと伸ばして歩いてくる。
額の痣は完全に消え、くファンデーションを塗った横顔は、病院のベッドで見たよりもずっとびて、志のそうなを宿していた。
「おはようございます」
理はテーブルのにち、私たちに向かって丁寧に礼した。
美穂が息を呑み、ちがりかけたが、何を言っていいのか分からずに腰を浮かせたまま固まった。
「座りなさい」
私が促すと、理は美穂の隣の空いた席へ、静かに腰をろした。
員がとおしぼりを置く。その、のにく張り詰めた沈黙が流れた。
をいたのは、美穂だった。
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「……理」
美穂の声は震えていた。りでも、焦りでもなく、胸の奥底から搾りすような響きだった。
「ごめんなさい」
理が驚いたように目を丸くし、美穂を見た。
「のことよ。母さんがくなったのこと……私、あんたに本当に酷いことを言った。あんたが気楽だったわけじゃないこと、仕事のを縫って病院に来てくれようとしていたこと、分かっていたのに……私、自分が惨めで、疲れていて、あんたにつ当たりしたの」
美穂の目から、粒の涙が零れ落ち、テーブルのに敷かれたナプキンに染みを作った。
「あんたが迷惑をかけまいとして、私かられていったのは、全部私のせいよ。でもね、理……私、あんたを荷だとったことなんて、度もなかったのよ。あんたが私の妹だから……母さんが遺してくれた、たったの族だから……」
美穂は両で顔を覆い、しゃくりげた。
理はかなかった。美穂の涙をじっと見つめ、その瞳を激しく揺らしていた。
、固く閉ざされていた氷の扉に、ようやくい湯が注がれたようなだった。
理はゆっくりと息を吸い込み、バッグから枚の類を取りした。
赴任の承諾だった。
部の署名欄には、まだ何もかれていなかった。
「真鍋さん」
理が私を真っ直ぐに見据えた。
「昨夜、どうして会って話そうと仰ったんですか」
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私はめたコーヒーのカップに指を添えた。
嘘をつくつもりも、綺麗な言葉で飾るつもりもなかった。
「あなたを止めるためじゃないわ」
私ははっきりと、理の目を見て言った。
「きたいんでしょう。ずっとやりたかった仕事なんでしょう。なら、きなさいよ。誰もあなたを縛る権利なんてないわ」
美穂がハッと顔をげたが、私は構わずに言葉を続けた。
「でもね、田辺さん。もう度と、あんな真似はしないで」
「……あんな真似?」
「顔も見えない番号に隠れて、全な距から『点呼』を取るようなき方よ。誰にも迷惑をかけないなんて、この世にはいないの。きている限り、は誰かのを奪い、誰かに配をかけ、傷つけたり傷つけられたりしながらきていくのよ。それを全部拒絶して、無傷のままできようなんて、ただの卑怯よ」
私の厳しい調に、美穂が息を呑んだ。
けれど、理の瞳は逸れなかった。私の言葉を、語語、その胸の芯で受け止めているようだった。
「シンガポールにっても、仕事で壁にぶつかるでしょう。病気配にかかるかもしれない。どうしようもなく寂しくて、夜に泣きたくなるだって来るわ」
私はテーブルの真んに置かれた類を指差した。
「その、またどこかのらない番号を探すつもり? そんなの、もう絶対に許さない。
助けてほしいは『助けて』と言いなさい。寂しいは『寂しい』と言いなさい。に迷惑をかける覚悟を持てないなら……そんなところ、くんじゃないわよ」
喫茶のジャズの調べが、静かにに届いた。
理の唇が、微かに震えていた。
やがて、彼女の瞳から、筋の涙が静かに頬を伝った。
それは病院で流した怯えの涙でも、定で流したりの涙でもなかった。
自分のを、世界にそのまま受け止められたが流す、温かい涙だった。
理はバッグから黒いボールペンを取りした。
キャップをし、署名欄に自分の名を、文字ずつ丁寧にき込んでいった。
『田辺理』
力い跡だった。
彼女はペンを置くと、まず隣の美穂に向き直り、くをげた。
「姉さん。今まで、ごめんなさい。……ってきます」
美穂はハンカチで涙を拭いながら、何度も、何度もさく頷いた。
「うん……うん。体だけは、本当に気をつけるのよ」
そして理は、私に向き直った。
その顔には、から度も見ることのできなかった、相応の柔らかく自然な笑みが浮かんでいた。
「真鍋さん。……会いに来てくれて、本当にありがとうございました」
波の向こうの無質な数字ではなく、目のにいるのとして、彼女は私にそう告げた。
私はさくため息をつき、カップを持ちげた。
「お礼なんていいわよ。……おかげで、私の平穏な活はめちゃくちゃになったんだから」
私の減らずに、理がさく吹きした。
その笑い声を聞いた、私ので頑なに張り巡らされていた防線の壁が、よい音をてて崩れっていくのをじていた。