"十一時八分の「家に着きました」" 第9話
領収とガラスの壁
それから週、私の夜は完全な静寂を取り戻した。
分になっても、スマートフォンの画面がることはなかった。
美穂からも連絡はない。姉妹のでどんな話しいが持たれたのか、あるいは再び分い沈黙の壁が築かれたのか、私にはる由もなかったし、るべきでもなかった。
私は何事もなかったかのように会社へ通い、類を作り、スーパーで分の惣菜を買い、静かに呂に入って寝た。
元の活に戻っただけだ。の、あの番号を変えたばかりの、静かで清潔な々に。
曜の午。
退勤のタイムカードを切り、私はオフィスの入るビルのエレベーターをりた。
階のエントランスホールは、を急ぐサラリーマンやOLたちで混みっていた。
自ドアへ向かって歩きした私の界の端に、ガラスの壁際にぽつんとち尽くすが映った。
が、勝に止まった。
ベージュのトレンチコートを着た柄な女性だった。
角巾はもうされていたが、肩をかばうようにし体を傾け、両をコートのポケットにく突っ込んでいる。
額の赤の傷は、黄っぽい痣へと変わり、髪で隠すように流されていた。
田辺理だった。
彼女はエントランスをき交う々をじっと見つめていた。
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私を探しているのだと、すぐに分かった。
逃げることもできた。の波に紛れて別のかられば、彼女に気づかれることはなかったはずだ。
けれど、私のは踵を返せず、気づけば彼女の正面へ歩み寄っていた。
「……田辺さん」
声をかけると、彼女はビクッと肩をねさせ、こちらを向いた。
私を認識した瞬、その瞳に微かな揺がり、次いで、いつものあの平坦で静かな表へと戻った。
「真鍋さん」
彼女はさくをげた。痛むのか、肩がわずかに張る。
「どうしてここが分かったの」
「病院の受付で、真鍋さんの連絡先と緒に、勤務先の会社名が類にかれていたのを見ました。勝に押し掛けて、申し訳ありません」
理はポケットから、さない封筒を取りした。
差しされたその封筒には、几帳面な細い文字で私の名がかれていた。
「これ、お返しします。病院から聞きました。初診のとき、預かりをて替えてくださったと」
私は眉をひそめた。
確かにあの、元引受は拒否したが、救急搬送の続き、最限必な初診の万円だけは窓に置いてきていた。な処置のつもりだったし、請求する気もなかった。
「……わざわざ持ってこなくても、振込でよかったのに」
「いえ。直接お返しして、お礼を言いたかったので」
理は封筒を私の元へ押しやるように差しした。
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受け取らざるを得ず、指先が触れう。彼女の指先は、の夜に晒されていたせいか、氷のようにたかった。
封筒のには、札の万円が枚と、病院の領収のコピーが入っていた。どこまでもきちんとした、儀な精算だった。
「お姉さんには、会ったの?」
私が尋ねると、理は線をわずかに斜めへ落とした。
「はい。退院したに、アパートので待っていました。々と……叱られました」
「そう。なら、よかったわ」
「鳴って、泣いて、実に帰ってこいって言われました」
理は淡々と言った。まるでの庭の話をしているかのような調だった。
「でも、お断りしました。私には私の活がありますし、姉には姉の庭がありますから。これ以、配をかけるわけにはいきません」
美穂が喫茶で泣いていた姿が脳裏をよぎった。
この女は、やはり何も変わっていない。
自分を頑丈な硝子の箱のに閉じ込め、誰のも届かない所から、礼儀正しい会釈だけを返しているのだ。
「……そう。あなたのよ、好きにすればいいわ」
私はたく言い放ち、封筒をバッグにしまい込んだ。
「おは確かに受け取りました。これで私たちは完全に終わりね。度と私のに現れないで」
背を向けようとした私のに、理の静かな声が届いた。
「はい。もう、メールは送りません」
ち止まり、振り返る。
夕暮れの灯がガラス越しに差し込み、理の横顔を淡く照らしていた。
「当たりでしょう。違っていたんだから」
「そうではありません」
理は首を静かに横に振った。
その瞳には、諦めとも堵ともつかない、議なが宿っていた。
「あなたに送るのをやめるのは、違いだと分かったからではありません。……真鍋さんが、誰かをってしまったからです」
言葉のを測りかねて、私は眉を寄せた。
「どういう?」
「顔もらない、名もらない、どこにんでいるかも分からない番号だったから、私は送ることができていたんです」
理は自虐な、かすかな笑みを元に浮かべた。
「らないなら、私の言葉に傷つくこともない。配してってくることもない。『どうしてそんなことを言うの』って責めることもない。何ひとつをかさずに、ただそこにいてくれる」
夕暮れの雑踏の音が、急にのいたようにじられた。
「でも、お会いしてしまいました。真鍋さんが実する、血の通っただとってしまいました。あなたが私をり、迷惑そうに睨みつけ、それでも万円をて替えてくれるようなだと……ってしまった」
理はく、呼吸をした。
トレンチコートの襟元をぎゅっと掻き抱く。
「のに、あんな方な言葉を投げつけるのは……甘えです。
迷惑をかけることになります。だから、もう送れません。……さようなら、真鍋さん」
彼女はもう度、くをげた。
そして、私が引き止める言葉を見つけるもなく、踵を返して自ドアの向こうへ歩きした。
夕のオフィスへ消えていく、そのさく傾いた背を見送りながら、私はエントランスのたいガラス壁にをついていた。
らなかったから、送れた。
ってしまったから、終わる。
彼女が求めていたのは、温もりなどではなかった。
ただの、絶対に傷つけわないで済む、全で酷な「」だったのだ。
そして私もまた、そのをよく消費していた共犯者にすぎなかった。
掌ののスマートフォンが、氷の塊のようにくじられた。