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"三十年間「奥さん」と呼ばれた同僚" 第16話

何者でもない男

宮を過ぎ、幹線が本格な速度に乗ってへとり始めた頃でした。

速百キロを超える列の窓のは、粒が横殴りに叩きつけられ、流れる景をく塗り潰していました。

内には規則正しい音と、空調のい唸り声だけが満ちていました。

の座席の乗客はく眠り込み、私たちの周囲だけが、真空帯のように静まり返っていました。

ふと隣を見ると、隆史が両をズボンの太もものに置き、布をきつく握りしめていました。

その指の関節が、くなるほど力が入っています。

呼吸が浅く、何かを喉元まで押しげようとしては、何度も呑み込んでいるようでした。

「……真理子」

呼ぶ声は、のモーター音にかき消されそうなほど微かでした。

私は読もうとしていていた文庫本から目をげ、夫の横顔を見つめました。

夫は窓のの点を見つめたまま、首をかそうとしませんでした。

「俺はな……怖かったんだ」

あの、リビングで逆して鳴り散らしたのような激しさはありませんでした。

それは、何も何週も、の底でで抱え込み、逃げを失った末に漏れたような、けないほど脆い声でした。

「定になるのが、ずっと怖かった」

幹線がいトンネルに入り、窓ガラスが暗転して、夫の歪んだ顔が鏡のように照らしされました。

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「会社にいれば、俺は『部』だった。理尽な層部にをげて、部の始末に胃を痛めて……どれだけを啜っていても、部からは頼りにされ、役員からは名を覚えられていた。自分が社会の役にっている、必とされているっていう実だけは、確かにあったんだ」

隆史の唇が、さく震えていました。

「でも、定を迎えて、あの歓送会が終わった瞬……全部消えた。俺の元には、何つ残らなかったんだよ。朝起きても、く所がない。指示をす相もいない。鳴る相も、をげる相もいない」

夫はゆっくりと顔を伏せ、自分の空っぽののひらを見つめました。

「肩きがなくなった俺は……ただの、何の価値もない歳の爺さんなんじゃないかって。からどうやってきていけばいいのか、自分自が何者なのか、何つ分からないんだ。……それが怖くて、怖くてたまらなかった」

告でした。

誰かに相談して対策を練ったでもなく、結論をして綺麗にえたでもない。

今まさに、目ので元が崩れ落ちそうになっている男が、そのまま差ししてきた「の音」でした。

、林紀子さんに見せてきたものすら超えた、何の計算もない、無様で剥きしの恐怖でした。

私は、ののしめかけたカップを見つめました。

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かつての私なら、反射に優しい言葉をかけていたでしょう。

「そんなことないわよ」「族のために頑張ってくれたじゃない」「これからはでゆっくり暮らしましょう」――そうやって相の痛みを急いで拭いり、波をてないように取り繕っていたはずです。

けれど、私はその易な慰めをにしませんでした。

そんな言葉は、夫の恐怖を誤魔化すだけで、何の救いにもならないことをっていたからです。

私はただ、静かに夫の横顔を見つめました。

「そう」

私の声は、く、落ち着いていました。

「そんなにっていたのね」

隆史が、ハッとしたように私を見げました。

私の瞳のに軽蔑も、っぽい同もないことを見て取ると、夫の目からポロポロと涙がこぼれ落ちました。

声を殺して、肩を震わせて泣く夫の姿を、私は目を逸らさずに見つめ続けました。

「あなたが何者でもなくなって、ただの頼りない歳の男になったところから……私たちの話が、ようやく始まるんじゃないかしら」

トンネルを抜け、内に再びのが差し込みました。

夫はさく頷き、震えるで目元を拭いました。

、彼が隠し通してきた分い壁が、音をてて消えった瞬でした。

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