"三十年間「奥さん」と呼ばれた同僚" 第10話
阪きの消印
夕暮れのリビングには、異様な景が広がっていました。
普段なら居のソファに腰をろし、テレビの相撲継かニュースを眺めているはずの隆史が、エプロンもつけずに台所にち、ぎこちないつきで菜を切っていました。
まな板を叩く揃いな音が、静まり返った部に響いています。
私がリビングのドアをけると、夫はビクッと肩を震わせ、包丁を握ったまま振り返りました。
「あ……おかえり。どこへってたんだ? 夕飯、俺が鍋でも作ろうかとってな」
その声はずり、媚びるような微かな笑みが元に張り付いていました。
私が林紀子さんに会いにったことを、夫は々勘づいていたはずです。
問い詰める勇気もなく、かといって平然ともしていられず、慣れない事をすることで「善良な夫」を演じようとしている――その痛々しいほどの揺が、に取るように分かりました。
私は何も言わず、廊の物置部へと向かいました。
奥の押し入れから、茶いプラスチックの装ケースを引きします。
そこには、のがの「公記録」が眠っていました。賃貸契約の控え、転勤の辞令、保険証、計簿、そして昔の帳。
私は冊の古いバインダーと、束になった封筒を抱えてリビングに戻り、ダイニングテーブルのに音をてて置きました。
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「隆史さん、を止めてそこに座って」
夫はまな板のの包丁を置き、濡れたを布巾で拭いながら、おずおずと私の向かいの席に腰をろしました。
テーブルのに積まれた古い類のを見て、夫の喉仏がさくしました。
「林さんに会ってきたわ」
私の平坦な言に、隆史の顔から血の気が引いていきました。
「……何を、話した」
「のことよ。全部聞いてきたわ」
私はバインダーをき、枚の黄ばんだ封筒を夫のに滑らせました。
に届いた、会社からの辞令の通。そこには『阪営業所勤務を命ず』と印字されていました。
「隆史さん。あなた、この私になんて言ったか覚えてる? 『会社から理尽な内示がた。断ればクビだ。おには苦労をかけるが、ついてきてくれ』って、申し訳なさそうな顔でをげたわよね」
「……ああ。そうだったな」
「嘘ね」
私は夫の目をまっすぐに見据えました。
「林さんから聞いたわ。あれは会社からの制じゃない。あなたが自らを挙げて、当の部に直訴した社内公募だったそうね。阪でのちげを成功させれば、最で課に昇できるレールが敷かれていたから。……あなたは林さんと何度も準備をして、勝算を練ったで、その子を取りにった」
隆史の唇が、細かく震え始めました。
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「あの、私、の仕事を辞めたのよ。せっかく正社員として復帰できる目途がっていたのに、全部捨てて、見らぬ阪のアパートで、まだ歳の恵理を抱えてで育児をしたのよ。友達もいなくて、夜泣きする娘を抱いて、毎ベランダで泣いていたわ」
私の界が、悔しさでし滲みました。
「でもね、『夫が族のために会社で戦っているんだから、私が愚痴を言っちゃいけない』って、自分に言い聞かせて耐えていたの。……でも、違ったのね。あなたは族のために仕方なくったんじゃない。自分の世のために、で決めて、その決定の『結果』だけを私に押し付けたのよ」
「それは……」
隆史は顔を赤くし、絞りすように言いました。
「おをにさせたくなかったんだ! もし公募に落ちたら、ただの無駄骨になる。決まってから言った方が、おに余計な気苦労をかけずに済むと……」
「違うわ」
私はテーブルをのひらでく叩きました。
「気苦労をかけたくなかったんじゃない。私に『かないで』って反対されるのが嫌だったんでしょう? 自分のキャリアの邪魔をされたくなかったから、既成事実を作って私に差ししただけよ!」