"三十年間「奥さん」と呼ばれた同僚" 第9話
引き継ぎのない退職
計の針が午半を回ろうとしていました。
ラウンジのテーブルのには、すっかりめ切ったつのカップが残されていました。
話すべきことは、すべて尽くしていました。
そこには憎悪も、罵りいもしませんでした。
ただ、という歳のみと、の女性がそれぞれの所で背負わされてきた、いびつな役割の残骸だけが転がっていました。
林さんはバッグから伝票を取りげ、自分の財布をこうとしました。
「あ、結構です」
私が慌てて制止しようとすると、彼女は穏やかに、しかし断固としたつきでそれを断りました。
「ここは私に払わせてください。私自の、の区切りのための代ですから」
彼女は伝票をに取ると、背筋を伸ばして私に向き直りました。
「奥様。私は、昨をもって会社を退職いたしました」
私は驚いて目を見張りました。
「え……? でも、お若いですし、まだ……」
「役員から残ってほしいと引き留められましたが、お断りしました。隆史さんが定を迎えたということは、私のあの『席』も廃止されたということです。これ以あの会社にいても、私は誰かの『奥さん』の霊を引きずり続けるだけですから」
彼女の表には、抹の寂しさと、それを遥かに回る清々しさがありました。
広告
「これからは、私の夫と、静かに暮らします。主も私の退職をんでくれましてね。で庭の入れでもしようかと話しているところです」
「……ご主には、会社のあの冗談のこと、話してらしたの?」
私が恐る恐る尋ねると、林さんはしだけ悪戯っぽく微笑みました。
「ええ。『おがで誰かの母親役やってる、俺はで晩酌してたんだから、退職したら毎旨いもん作れよ』って笑われました。……うちの夫も概、鈍で図太いなんです」
その笑顔を見た瞬、私は胸が締め付けられるような羨望を覚えました。
林さんの夫婦のには、歪な形であれ、お互いのさや狡さを笑いえる「々しい現実」がしていたのです。
私と隆史のには、度も持ち込まれなかった、臭い本音のやり取りが。
「奥様」
ちがった林さんは、トレンチコートのボタンを留めながら、最に言いました。
「隆史さんへの業務引き継ぎはすべて終えてきましたが……庭への引き継ぎだけは、私にはできません」
「引き継ぎ……」
「はい。これからの隆史さんは、鎧を着ていません。会社というろ盾も、部も、そして私という都のいい相談相も失って、ただの空っぽな、怯えた歳の男です。その彼をどう扱われるかは、奥様が決めることです」
林さんはく礼しました。
広告
「どうか、お元気で」
彼女は度も振り返ることなく、軽やかな取りでラウンジをていきました。
その背は、の荷をすべてろしたの、潔い美しさに満ちていました。
残された私は、席をち、ホテルの自ドアをくぐりました。
のはに変わっていましたが、たいが頬を打ちました。
林さんはりました。
彼女は自分の志で台をり、自分のへと帰っていきました。
そして、私の元に残されたのは、分の埃をかぶった、夫の嘘と沈黙だけでした。
「守るため、だった?」
私は駅へと向かう雑踏ので、傘も差さずにち止まりました。
「ふざけないでよ、隆史さん」
彼が独り善がりに守り続けた「綺麗な庭」の蓋を、今夜こそ、私のでこじけてやる。
そう決した私の取りは、で濡れたアスファルトを、力く踏みしめていました。