みかん小説
本棚

"三十年間「奥さん」と呼ばれた同僚" 第3話

父と母と呼ばれる

夜のを回った頃、のはしんと静まり返っていました。

寝からは、酒と疲労に任せて眠る夫の、くい鼾が聞こえてきます。

私は暗いダイニングテーブルのに座り、持ち帰った記品の袋にを伸ばしました。

番底に入っていたのは、布張りの派なアルバムでした。表にはの箔押しで、『祝・定退職 営業課同』と刻まれています。

ページをめくると、隆史の若い頃からの写真が、社員たちのきのメッセージとともにびっしりと貼り付けられていました。

私はまず、疑いたくもない劣な像を打ち消すために、夫のスマートフォンを確認していました。

リビングのカウンターに無防備に置かれた端末のロックは、昔から変わらない娘の誕でした。

恐る恐るいたメッセージアプリの履歴には、浮気相をわせるような甘い言葉も、ホテルの予約確認も、隠された写真のフォルダもありませんでした。

林紀子さんとのやり取りは、拍子抜けするほど事務で、淡々としたものでした。

『の役員報告資料、修正版をデスクに置いておきました』

『血圧のお薬、今週分で切れますよね。張に処方してもらってください』

『退職続きの類式、総務課の鈴さんに渡してあります』

広告

そこには、肉体関係を匂わせる々しさは何つありませんでした。

けれど、スクロールする指が刻みに震えました。

浮気や倫といった、世に溢れるっぽい裏切りなら、どれほどりをぶつけやすかったでしょう。

ここにあるのは、もっとく、もっと酷な「信頼」の記録でした。

夫の持病の数値。

張先でむ常備薬の銘柄。

がぶったにむべき温かいお茶の温度。

私が、妻として管理し、気遣ってきたはずの細やかな体調のすべてを、林さんは当たりの常として共していました。

そして、元のアルバムに目を落とした私は、息を呑みました。

輩社員たちのメッセージは、どれも真っ直ぐな敬に満ちていました。そしてそのくに、同じ言葉が躍っていたのです。

『部と林さんは、営業課の「お父さんとお母さん」でした』

『部が層部と衝突して荒れした、林さんがそっと差ししたブラックコーヒーでが収まったこと、今でも伝説になっています』

『定も、どうか奥さんとで、仲良く穏やかなをお過ごしください』

ここにかれている「奥さん」が、私のことではない。

その残酷な事実が、文字文字から毒のように染みしてきました。

彼らにとって、隆史の隣にいるべきは、最初から林紀子だったのです。

広告

会社の危を共に乗り越え、理尽な叱責を共に耐え、部の始末を共にをげて片付けてきた「戦友」。

それを周囲はいつしか「夫婦」と呼び、はその居のいい座敷に、腰をろし続けていたのです。

『林さんへ。部の綱引き、本当にお疲れ様でした。部を番理解し、操縦できるのは世界で林さんだけです』

アルバムの最のページにかれた、支からのきのメッセージを見つめながら、私はぽろぽろと涙をこぼしました。

しいからではありませんでした。

自分が捧げてきたの歳が、何のもない抜け殻のようにえて、寒気が止まらなかったのです。

「庭を守るのが、おの役目だ」

「で真理子が笑っていてくれるから、俺はで戦える」

そう言って私のを撫でていた夫の笑顔が、脳裏をよぎります。

私は守られていたのではありませんでした。

夫がで見せるさも、悔しさも、にまみれた本音も、何つらされないまま、全な檻のに飼われていただけだったのです。

私はアルバムを静かに閉じました。

パタンという乾いた音が、静まり返った夜の台所に、さく響きました。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: