"十九年間、夫に翻訳されていた" 第16話
調の机
霞が関の京庭裁判所階。
無質ないリノリウムの廊には、独特の張り詰めた静けさが漂っていた。
午、番号を呼ばれて案内された調は、畳ほどの殺景な部だった。央に置かれた目調のテーブルを挟んで、の調員が座っている。代半ばとしき穏やかな物腰の男性と、代半の、な縁鏡をかけた女性だった。
夫婦が顔をわせずに済むよう、交互に部へ呼ばれて話を聞くのが原則だが、初の冒だけは続きの説のために同席を求められる。
私の隣には、分遅れで到着した俊介が座っていた。
彼の表は、世田の自宅をたとは変していた。いつもの、非の打ちどころのない能な管理職の顔に戻っていた。仕ての良いスーツにを包み、調員たちに対して丁寧な会釈を返している。
「では、森川俊介さん、奈緒さん。本より婚姻関係に関する調続きを始します」
男性調員が類をえながら、形式な挨拶を述べた。
「申である奥様からの面には、『の精神圧迫による婚姻関係の破綻、および別居の』とありますが……まずはご主、現状についてどのようにお考えですか」
俊介は微かに頷き、慣れたプレゼンテーションを始めるようにをいた。
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「調員の先方、本はおをいただきありがとうございます。まず申しげたいのは、がに暴力や貞といった法な責事由は切しない、ということです」
滑らかで、聞き取りやすい声だった。調員たちも自然とを傾ける。
「妻の奈緒は、元来非常に真面目で、それゆえに自己評価がく、ストレスを内に溜め込みやすい性格です。現、娘が学受験の直期であり、妻自も更期の体調変化がなり、なパニック状態に陥っております。この調の申しても、彼女が助けを求めているサインだと私は受け止めております」
俊介は鞄から、あの青いノートを取りし、机のに丁寧に置いた。
「これは、私が、妻の言葉との状態を客観に記録してきた誌です。これをご覧いただければ、彼女がいかに緒の波にされやすく、また私がどれほど彼女のケアにを砕いてきたか、ご理解いただけるといます」
男性調員が鏡の奥の目を細め、「ほう……記録ですか」とノートにを伸ばそうとした。
、こので庭内の誰もが俊介の方についてきた。
学の面談でも、義父母のでも、親戚の集まりでも。俊介の理然とした「妻の解説」は、常に第者を納得させる絶対な説得力を持っていた。
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しかし、ノートの表に指が触れる直、もうの調員――縁鏡の女性が、静かにを挙げた。
「森川さん。しお待ちいただけますか」
俊介が言葉を止めた。
女性調員は青いノートには目もくれず、じっと俊介の顔を見つめていた。その瞳には、や同ではなく、怜悧な観察のが宿っていた。
「私たちは今、ご主の分析や記録の正確さを審査しに来たのではありません」
「……は?」
「申してをったのは、奈緒さんです。私たちは、さんご本が、今、自分の志で何を望んでいらっしゃるのかをお聞きしたいのです」
女性調員は姿勢を正し、私の方へと線を移した。その差しは厳しくも、どこまでも公平だった。
「さん。ご主の今のお話を聞いて、あなたはどうわれますか。ご自の言葉で、お話ししてください」
俊介が横で、微かにじろぎした。私に「余計なことを言うな」と図するかのように、ジャケットの擦れる音がさく鳴る。
私は膝ので揃えていたを、ゆっくりと調の机のに置いた。
声が震えないように、奥歯を度だけ噛み締めた。
「私は、夫の言うような病気でも、な錯乱でもありません」
調の空気が、ピンと張り詰めた。
「夫は、私の言葉をすべて自分の都の良いに翻訳し直してきました。
私が嫌だと言っても『疲れているだけだ』と処理され、私が諦めて『もういい』と言えば『納得して同した』と記録されました。私はこのの隣で、自分の名で話すことを禁じられてきました」
「奈緒、それは君の誤解だ――」
俊介がを挟もうとした瞬、男性調員が「ご主、発言はお控えください」とで制した。
俊介の顔が、わずかに引きつった。庭内では決して誰も遮ることのできなかった彼の言葉が、司法のルールによって酷に切断されたのだ。
私は続けた。
「私は夫の暴力や借を訴えているのではありません。ただ、のとして、自分の言葉を取り戻したいのです。そのために、別居を求めます。修復の余はありません」
言い終えた、部のに完全な静寂が落ちた。
女性調員はく度だけ頷き、元の調調にペンをらせた。カリカリというい記音だけが、部に響く。
「……よく分かりました。さんのごは極めて確ですね」
女性調員は顔をげ、俊介を見た。
「ご主。奥様の申してに、緒な錯乱や曖昧さは見受けられません。本のところは、まず別居に向けた具体な条件理――活費の分担と、居の確保について話しいをめさせていただきます」
「待ってください! 僕は納得していません!」
俊介の声が裏返った。
「妻は正常な判断ができていないんです! その記録を読んでください! 彼女がどれだけ僕に依してきたか、僕がどれだけ彼女を守ってきたか、そこにすべて――」
「森川さん」
女性調員の乾いた声が、俊介の叫びを遮った。
「奥様は、守ってくれとはおっしゃっていません。『れたい』とおっしゃっているのです。の内をあなたがどれほどに推し量ろうとも、ご本がにされた確な拒絶に勝る事実はありません」
俊介は言葉を失い、を半きにしたまま子に崩れ落ちた。
机のに置かれた青いノートが、蛍灯のたいを浴びて、ひどく無力な、ただのの束に見えた。
そのの午、私たちは別居に関する暫定に署名した。
婚姻費用の分担額、世田のマンションからの私の退期限、そして当面の連絡はすべて面または調委員会を通じてうこと。
署名欄に、私はぶりに、迷いのない跡で自分の旧姓をき入れた。
『奈緒』
ペン先がを引っ掻くよい触が、指先を通じて全に広がっていった。