"十九年間、夫に翻訳されていた" 第15話
ドアの閉まる音
「奈緒、聞いているのかい?」
私の沈黙に、俊介の眉がわずかに寄った。
相がに鳴り返してくるなら、彼にはいくらでもそれを論破するカードがある。泣き叫ぶなら、それを「ヒステリー」として処理する順もっている。だが、目のの妻は、りも涙も見せず、ただ静かにっている。
そのことが、俊介の計算式をわずかに狂わせているようだった。
「なぜ黙っているんだ。君が黙るのは、僕の分析が図だからだろう」
俊介は歩、私にづいた。
「言いたいことがあるなら、言葉にしなさい。の対話から逃げるのは、君の昔からの悪癖だ。逃げ癖を放置してきたから、にもなってこんな無責任なにるんだよ」
逃げ癖。無責任。
、私のにタコができるほど注ぎ込まれてきたラベリングだった。
私はゆっくりと顔をげ、俊介の目を正面から見据えた。
驚くほど、拍数が落ち着いていた。の震えも完全に消えていた。
「昨夜、私がソファに座っていたのはね」
私のからた声は、さかったが、部の隅々まで澄んで通った。
俊介は微かに顎を引き、待ってましたと言わんばかりに構えた。「ほら、言ってみろ、それを分析してやる」というが、鏡の奥の瞳に宿る。
「私がソファに座っていたのは、あなたが決めていいなんて何つないわ」
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俊介の表が、ぴたりと固まった。
「……何?」
「私が夜にをもうと、暗ので座っていようと、美咲の部のでち止まろうと、その理由をあなたが解釈する権利はないの」
「奈緒、僕は君を理解しようとして――」
「じゃあ、どういうなんだ」
俊介は私の言葉を遮り、わずかに声を荒らげた。初めて、彼の端正な仮面に微かな亀裂が入った。
「君のそのに正当な理由があるなら、今ここで僕に説すればいいだろう! なぜ夜に座っていたのか、なぜドアのでち止まったのか、言わなければ伝わらない。説してくれ!」
私は首を横に振った。
淡にではなく、ただ当然の事実を述べるように。
「あなたに説する必はないわ」
部の空気が、凍りついた。
「……必がない?」
俊介は信じられないものを見るように目を見いた。
「夫婦だろう! も連れ添った夫に、自分のの理由を説する義務すらないと言うのか!?」
「ないわ」
私ははっきりと告げた。
「私は今、に庭裁判所へく。それは私が自分で決めたで、私の志よ。あなたがそれをどう分析しようと、ノートにどうき殴ろうと、私のの理由は私だけのものよ。あなたに提して、添削してもらうためのものじゃない」
「奈緒、君は……!」
俊介は両を伸ばし、私の肩を掴もうとした。
その瞬、彼のからびしかけたのは、使い古してきたあの魔法の呪文だった。
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「君は今、単にになって――」
しかし、その言葉は、最まで紡がれることはなかった。
俊介の唇が、途半端な形のまま、空でピタリと止まった。
彼の目のにいる私は、りに任せて叫んでいるわけでも、涙を流して震えているわけでもなかった。ただ静かに、コートを着て、鞄を持ち、真っ直ぐにを見つめている。
「」という言葉を貼り付けるための隙が、私のち姿のどこにもしなかったのだ。
入力されるデータがゼロになった、稼働し続けた俊介の翻訳は、突如として処理能の止状態に陥った。
「……奈緒」
俊介のが、宙を泳ぎ、所なさげに力なく垂れがった。
まれて初めて見る、夫の途方に暮れた顔だった。何を言えばいいのか、どの単語で相を規定すればいいのか分からず、ただ目を見張っている代半ばの男。
私はそれ以、言も言葉をねなかった。
玄関へ向かい、靴べらを使って黒のフラットシューズに踵を入れる。
背で、俊介がさく息を吸い込む気配がした。何かを言いかけ、そして何も言えずにみ込む気配。
私はドアノブにをかけ、押しけた。
晩のたい朝のが、気に頬を撫でた。の空気は、あのマンションのよりもずっと澄んでいて、ずっと軽かった。
私は歩、の廊へ踏みした。
振り返ることはしなかった。
い鉄の扉が、油圧クローザーのい唸りを伴いながら、ゆっくりと閉まっていく。
カチャリ。
ラッチが噛みい、施錠の音が静かに響いた。
に及んだ私のい沈黙が、その属音とともに、完全に遮断された。