"十九年間、夫に翻訳されていた" 第13話
杯のめたお茶
夜半。
リビングの照を落とし、接照の暗いだけが部を満たしていた。
玄関のタタキには、昨パッキングを終えた私のキャリーケースと、類を入れた黒いトートバッグが並んでいる。調申の控え、戸籍謄本、私の旧姓の印鑑、帳、そして独代からの通帳。私の全財産と、私の名を取り戻すための具がすべて収まっていた。
私はダイニングテーブルに座り、マグカップに注いだ緑茶をすすった。
んで、テーブルのに置く。
もう完全にめ切っていた。今夜、ケトルでお湯を沸かしたのはこれで度目だった。淹れては、むのを忘れ、め、また捨てる。その繰り返しだった。
廊の軋む音がして、俊介が斎からてきた。
すでにパジャマに着替えていたが、その顔にはいつもの余裕はなかった。美咲に鳴られた夕の、彼は斎に閉じこもり、何もてこなかったのだ。
俊介のには、あの青いノートが握られていた。
彼は私の向かいの席に座ると、ノートをテーブルの央に置き、ゆっくりとページをいた。昨の付の、あの真しいインクのページの次――まだ誰も何もいていない、真っな見きだった。
「……はだね」
俊介の声はく、掠れていた。
「ええ」
「奈緒。今夜の君のを、僕は斎から見ていたよ」
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俊介は鏡のブリッジを指先で押しげ、万を胸ポケットから取りした。
「君はお湯を回沸かした。そして、そのお茶をずつしかまずに放置した。それから、さっきから何度も玄関にっては、キャリーケースの鍵を確かめている」
観察し、記録し、分析する。
どれだけ庭が崩壊しかけていても、この男はこの作業をやめることができないのだ。それが彼の世界を繋ぎ止める、唯の命綱だからだ。
「何を言いたいの?」
「君は、怯えているんだよ」
俊介は万のキャップをし、のページのにペン先を置いた。
「本当に決が固まっているは、そんなに無駄な作を繰り返さない。お茶がめるのは、君の識が未来のに囚われて、目のの現実に集できていない証拠だ。玄関をき来するのは、今すぐ逃げしたい衝と、このを失うことへの恐怖ので、が竦んでいるからだ」
俊介のペン先が、のでサラサラと音をて始めた。
『奈緒は決の夜、激しい逡巡のにいた。めた杯のお茶と、定まらない取りが、彼女の底れぬ恐怖を物語っている。彼女が本当に求めているのは、婚という破滅ではなく――』
「俊介さん」
私は静かに呼びかけた。
俊介のが止まった。彼は顔をげ、憐れむような、けれどどこか縋るような目を私に向けた。
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「奈緒。素直になりなよ。怖いんだろう? 歳で、職歴も資格もなくて、美咲の親権を取れる見込みもい。このをて、ワンルームのアパートでできていくことが、どれだけ過酷か。君がそれを番よく分かっているはずだ」
俊介はを乗りし、私の元にノートを滑り込ませた。
「今なら、まだ引き返せる。の朝、庭裁判所にキャンセルの話を本入れればいい。『体調良のため延期したい』と僕から連絡してもいい。そうすれば、美咲の受験が終わるまで、この話は保留にできる。君も、落ち着いてこれからのことを考え直せる」
俊介の瞳の奥に、らかな焦燥が見えた。
彼は私を配しているのではない。
「自分が完璧にコントロールし、解説し尽くしてきた妻」が、自分の辞に載っていない言葉を喋りすことが、恐ろしくてたまらないのだ。美咲に拒絶された今、私にまで拒絶されれば、彼のがすべて砂の楼閣だったことになってしまうからだ。
私はめ切った緑茶のカップを両で包み込んだ。
のひらに伝わる、確かなたさ。
「は、予定通りくわ」
「奈緒!」
「私がお茶を何杯沸かそうと、玄関を何往復しようと、それは私のよ」
私はちがった。
マグカップを両で持ち、キッチンへ歩いて、シンクにめたお茶を静かに流した。
ジャーという音が、静かな部に響く。
「おやすみなさい、俊介さん。の朝、半にはるから」
振り返らずにリビングのドアへ向かう私の背に、俊介の鋭い声が投げつけられた。
「奈緒! の朝、君は悔するぞ! 玄関をる瞬、自分がどれだけ愚かなことをしたか、いることになる!」
私はドアノブにをかけ、瞬だけち止まった。
けれど、何も言い返さなかった。
言い返せば、またその言葉がノートの燃料にされるだけだ。
ドアを静かに引き、私はリビングをにした。
背で、カチリと万のキャップが閉まる音が、酷くさく響いた。