"十九年間、夫に翻訳されていた" 第9話
お母さん、またなの?
調まで、あと。
曜の午、のたいがマンションのガラス窓を叩いていた。
私は寝のクローゼットの奥から、独代に使っていたさなキャリーケースを引きしていた。調が始まれば、このに留まり続けることは精神に能になる。実に帰るか、ウィークリーマンションを借りるか。いずれにせよ、必最限のの回り品と、通帳、帳、保険証券をまとめておく必があった。
を畳み、キャリーケースの底に敷き詰めていた、背で微かな気配がした。
振り返ると、部のドアの隙から、美咲がってこちらを見ていた。
の制のブレザーを脱ぎ、カーディガンの袖をきつく握りしめている。学から帰ってきたばかりのようだった。
「……お母さん」
美咲の線は、ベッドのに広げられた着替えと、元のキャリーケースに釘付けになっていた。
「なに、それ」
「美咲……おかえり。かったのね」
私はを止め、努めて穏やかな声をそうとした。けれど美咲の顔からは、みるみる血の気が引いていった。
「ていくの?」
震える声だった。
「お父さんと、本当に別れる気なの? あのノートのことで?」
「あのノートのことだけじゃないの」
私はちがり、美咲のにみた。娘の肩に触れようとしたが、美咲は咄嗟に半歩、ずさりした。
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その拒絶に、胸の奥が鋭く痛んだ。
「、ずっと積みなってきたことなの。お母さん、もうこのでは、自分が何をじて、何を考えているのか、息ができなくなっちゃったのよ」
「わかんないよ!」
美咲の声がずった。目から、粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「お父さん、何も悪いことしてないじゃん! 浮気したわけでもないし、殴ったりもしないし、おだってちゃんと稼いできてくれてるじゃん! なんでお母さんが被害者みたいな顔してていくの!?」
「美咲、お父さんが悪だと言ってるんじゃないの。ただ――」
「お母さん、また衝になってるんでしょ!?」
叩きつけるような叫びだった。
私は凍りついた。
美咲は両で顔を覆い、しゃくりあげながら、溢れる言葉を吐きした。
「お父さんから聞いたよ! お母さん、今更期でホルモンのバランスが崩れてて、緒定になってるだけだって! 美咲が学受験で元かられるのが怖くて、空の巣症候群でパニックになってるだけだって!」
の奥で、カチリと音がした。
何かが噛みう音。、俊介がこののに張り巡らせてきた見えない結界が、娘のを借りて完全に完成した音だった。
「お母さん、昔からいつもそうじゃん! 何かい通りにいかないとすぐ黙り込んで、嫌になって、お父さんを困らせて! それでお父さんが優しく話を聞いて解決してくれたら、最には『もういい』って言って元に戻るじゃん! なんで今なの!? 私の共通テストまで、あとヶしかないんだよ!?」
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美咲の泣き顔を見つめながら、私は元が崩れ落ちていくような錯覚に囚われていた。
美咲は、俊介を憎んでいない。
そして、私を憎んでいるわけでもないのだ。
歳の女は、ただ恐怖しているのだ。父親から教わった完璧な世界――「お父さんは理性で正しく、お母さんは緒定で守られるべき」という、信じ切ってきた世界の均衡が崩れることに、怯え切っている。
『今は、彼女の言葉を額面通りに受け取ってはいけない』
、俊介がピンクのノートにきつけた、あのルールブック。
それは俊介ののだけに留まっていなかった。美咲の骨のに、血のに、考の癖として完璧に受け継がれていた。
私がここで「わかった、ごめんなさい」と言ってキャリーケースを閉じれば、庭は元通りになるだろう。
美咲はして受験に向かい、俊介は青いノートに『奈緒はな錯乱からち直り、族の切さを再認識した』と勝ち誇った文字をき加えるだろう。
そして、美咲はやがてになり、誰かと結婚した、夫から理尽に言葉を奪われても、「私が疲れているからだ」「私が未熟だからだ」と、自分を納得させるようになるのだ。
自分の母親が、そうやってき延びてきたように。
「……美咲」
私は歩、にた。
今度は引かなかった。
美咲の震える首を、痛くないように、けれど決して解けないさで握った。
「痛っ……なに?」
「お母さんは、病気でも、更期の錯乱でもないわ」
私の声は、く、驚くほど澄んでいた。
涙はなかった。りも、取り乱しもなかった。
「お母さんは、自分の志で、自分の正気で、このをる準備をしているの。あなたが信じられなくても、お父さんがどう解説しても、これが私の本当の気持ちよ」
美咲は目を見張り、息を呑んだ。
まれて初めて見る母親の顔を見るように、美咲の瞳がさく揺れた。
「……最」
美咲は私のを振りほどくと、ドアを乱暴にけて自分の部へと駆け込んでいった。バタン、と激しい音をててドアが閉まり、鍵のかかる音がカチャリと響いた。
静まり返った寝に、音だけが戻ってきた。
私は呼吸をひとつして、ベッドののキャリーケースに向き直った。
あと。
もう、誰の翻訳も受け入れない。
私はジッパーを、迷うことなく最まで引きげた。