"十九年間、夫に翻訳されていた" 第8話
「もういい」の翻訳
実からの帰り、内は沈黙に包まれていた。
美咲は部座席で眠りこけ、世田の自宅マンションに着いたのは夜の半を回っていた。美咲が靴を脱いで自分の部へ直すると、玄関には私と俊介のだけが残された。
俊介はジャケットをハンガーに掛け、キッチンへ向かって気ケトルにを注いだ。
ハーブティーでも淹れるつもりなのだろう。どこまでも丁寧で、無駄のない所作。
私は斎へ歩き、本棚のあの所から、最の青いノートを抜き取った。
リビングに戻り、カップを温めていた俊介ののカウンターに、ノートを叩きつけるように置いた。
バサリ、とい音が響いた。
「俊介さん。これ、説して」
俊介はケトルのスイッチを入れ、静かに振り返った。ノートを見ても、眉毛本かさない。
「のページよ」
私は震える指で、付箋を貼っておいたページをいた。
「ここ。『奈緒は自分の分相応さに気づき、仕事を諦められたことにから堵した』っていてある。どうしてこんな嘘をいたの?」
「嘘?」
俊介はだと言わんばかりに、わずかに首を傾げた。
「嘘なんていてないよ。事実の経過を約しただけだ」
「私は堵なんてしてない! 悔しくて、悔しくて、トイレで何も泣いたのよ! 智子さんにも、嘘の理由をいて断ったの! あなたが何も何も、私が働くのがどれだけ族の迷惑になるかって責めてたからでしょう!?」
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私の喉から、抑えきれない声が漏れた。
で、初めて俊介に向かって荒らげた声だった。
けれど、俊介の瞳には揺の欠片も浮かばなかった。彼は静かにダイニングチェアを引き、腰をろすと、両を組んで私を見げた。いつもの、部の業務報告に備を見つけたの顔だった。
「奈緒。論を排除して、ロジックを理しよう」
「ロジックの話をしてるんじゃないの!」
「いいや、ロジックの話だよ」
俊介の声は、氷のように滑らかで静かだった。
「あの、目の夜だ。君は最に何て言った?」
「……え?」
「何て言ったか、覚えてるかい? 君は僕に向かってはっきりと、『もういい』と言ったんだ」
胸の奥が、たく凍りついた。
「君は『もういい』と言って、議論を打ち切った。そうだね?」
「それは……あなたが何を言っても聞いてくれないから――」
「違うよ」
俊介は差し指をて、静かに否定した。
「あらゆる交渉や議論において、自ら反論を放棄して『もういい』と妥協を選択することは、相の提示した条件の理性を認め、それに従うという表示だ。君がもし、本当に働くことに妥当性があると確信していたなら、僕の算したリスクを論破する代替案をすべきだった。でも君はさなかった。さずに、自分の志で引きがったんだ」
俊介はノートの該当を、い指先で叩いた。
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「僕の論理な指摘を受け入れ、無謀な試みを諦めた。その結果、君は庭崩壊のリスクから救われ、常を取り戻した。は、誤った選択を回避できた、必ず理な堵を覚えるものなんだよ。だから僕は、君の層理にある『堵』を言語化して記録した。どこに嘘があるんだい?」
私は目のの男を見つめた。
界が歪むほどの恐怖が、胃の底からせりがってきた。
この男にとって、「もういい」という絶望の諦めは、「論理に屈して謝した証」に変換されるのだ。
傷つき、疲れ果て、これ以言葉を交わす気力すら奪われて零した鳴が、この男の脳内翻訳を通すと、「夫の正しさを認めて救われた妻の笑顔」として力される。
「……あなた、本気で言ってるのね」
私の声は、もはや震えすら失っていた。
「私の『もういい』は、あなたに絶望したってよ。あなたとこれ以話しても無駄だって、見限ったってなのよ」
俊介は困ったようにさく笑い、沸騰したケトルの湯をティーポットに注いだ。
ミントの爽やかなりが、気なほど甘美にちる。
「奈緒。見限ったが、そのも僕のために毎温かい事を作って、笑顔で『ってらっしゃい』を言うかい? 君はまた、今の婚したいという衝に引きずられて、過の記憶を都よくき換えているだけだよ」
俊介はハーブティーをすすり、慈しむような目で私を見た。
「君の言葉より、の実績の方が、ずっと正確に君を語っているよ」