みかん小説
本棚

"十九年間、夫に翻訳されていた" 第6話

のメッセージ

庭裁判所の調まで、あと。

私は息が詰まるようなマンションを抜けし、宿のにある喫茶へ向かった。

向かいの席に座ったのは、まで同じ経理事務所で働いていた元同僚の智子だった。突然の呼びしに驚いた様子だったが、注文したアイスコーヒーが運ばれてくると、懐かしそうに目を細めた。

「急にどうしたの、奈緒ちゃん。声、ずいぶん切羽詰まってたけど」

「ごめんね、急に呼びして。……智子さんに、どうしても確かめたいことがあって」

私は膝ののバッグを握りしめながら、喉のつかえを押しすように言った。

「のこと、覚えてる? 智子さんが、事務所のパートの枠が空いたからって、私に声をかけてくれたのこと」

智子はストローに唇をづけたまま、し首を傾げた。

「ああ、覚えてるよ。所も奈緒ちゃんの仕事ぶりってたから、歓迎だったんだよね。でも、結局だめになっちゃったじゃない」

「……私、あの、何て言って断ったか覚えてる?」

「え?」

智子はきょとんとした顔をした。

「何てって……自分で辞退したんじゃない。確か、LINEで連絡もらった気がするけど」

「そのメッセージ、まだ残ってたりするかな」

私の真剣すぎる気迫に気圧されたのか、智子は「ちょっと待ってね」とスマートフォンを取りした。

広告

画面をスクロールさせ、検索バーに私の名を打ち込む。

数分、氷がグラスに当たる乾いた音だけが響いた。

「……あ、あった。〇の、」

智子が画面をこちらに向けた。

緑の吹きしのに、紛れもない私のアイコンと、私の文章が表示されていた。

『智子さん、せっかくお声をかけていただいたのに本当にごめんなさい。やっぱり今のがには私のはすぎるみたいで、族にこれ以の負担をかけられないと判断しました。今回は見送らせてください。もういいんです。お気持ちだけで分嬉しかったです』

私の指先が、え切った。

「ほらね」

智子はスマートフォンの画面を伏せ、し困ったように眉をげた。

「奈緒ちゃん、あのすごく申し訳なさそうにしてたよ。『やっぱり私がにいないと回らない』って。美咲ちゃんの受験も控えてたし、ご主も忙しい期だったんでしょ? 奈緒ちゃんが庭を第に選んだんだなって、私はそう納得してたけど」

「……私が、選んだ」

「そう見えたよ? 正直、もったいないなとはったけど、奈緒ちゃんが『もういいんです』ってすっきりした顔で言うからさ。で働くより、を守る方がなんだなって」

違う。

喉元までかかった叫びを、私は奥歯で噛み殺した。

のあの、リビングで起きた景が鮮に蘇っていた。

広告

パートの話を持ち帰ったそのから、俊介は連晩、夜まで卓とエクセルシートを広げて私をダイニングテーブルのに座らせたのだ。

『千百円。週で万千円。そこから君の定期代と所得税、それから美咲の塾の軽代を差し引く』

俊介は青いペンで数字をトントンと叩きながら、極めて穏やかに言った。

『美咲の帰宅に君がになることでじる緒なリスク、それから君が過労で倒れたの医療費と僕の残業削減コスト。すべてを算すると、がは々万千円の赤字になる試算だ』

私は泣きながら訴えた。赤字の話じゃない、私はただ、社会とつながっていたい、自分の名でおを稼ぎたいだけなのだと。

けれど俊介は、眉ひとつかさずに言ったのだ。

『奈緒。自己満のために族全体に万以の負債を負わせることが、君の言う「自」なのかい? 僕には、君が何を焦っているのか理解できないよ』

目の夜、痛と吐き気で座っていられなくなった私が、絞りすように言った言葉。

――もういい。もういいから、寝かせて。

その「もういい」の翌朝、私は智子に辞退のメッセージを送ったのだ。そう送らなければ、あの夜の詰問が終わらないとっていたから。

界の記憶は、私の「もういい」の表面だけをすくい取っていた。

俊介の暴力は、傷跡を残さない。

彼はただ、相が窒息してを挙げるまで、淡々と酸素の濃度をげ続けるだけなのだ。そして酸欠で倒れたが「参した」という事実だけを、きれいに世界へ提する。

「奈緒ちゃん? 本当に丈夫? 顔、すごく青いよ」

智子の配そうな声が、くのアクアリウムの底から聞こえるようだった。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: