"十九年間、夫に翻訳されていた" 第5話
あとの夜
『奈緒は妊娠してから、の起伏が激しい』
その文から、そのの記録は始まっていた。付はの。私が美咲をごもってヶ、悪阻で仕事を休むが増えていた頃だ。
『つわりで苦しいのは理解できるが、彼女の訴えるや満は、ホルモンバランスの乱れによる過性の錯乱にい。今は、彼女の言葉を額面通りに受け取ってはいけない。彼女の発言をそのまま信じることは、庭の破滅を招く。夫である私が、彼女の真を論理に汲み取り、代わりに決定をす必がある』
このページだけ、主語が「私」ではなく「夫である私」になっていた。
ルールブックの制定。
俊介ので、私の格が「話を聞く価値のない、緒定なき物」として公式に規定された瞬だった。
このを境に、俊介は私の言葉をで聞くのをやめたのだ。私のからる鳴も、拒絶も、疑問も、すべて「ホルモンの過性の錯乱」というフィルターを通して無毒化され、都の良い言葉に翻訳されてきた。
。
私はこの男の作った、透なアクリル板の向こう側で叫び続けていたのだ。どれだけ言葉を尽くしても、側にいる俊介には「疲れた妻の甘え」としてしか届いていなかった。
玄関のドアがく音が響いた。
「ただいまー」
俊介のるい声。
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ラケットバッグをに置くドサッという音。
私は慌ててピンクのノートを本棚の隙に戻し、斎のドアを閉めてリビングへ戻った。臓が鐘のように打っていた。
「あ、奈緒。いたの」
テニスウェアのにウィンドブレーカーを羽織った俊介が、タオルで汗を拭きながらリビングに入ってきた。健康な赤みを帯びた肌、爽やかな笑顔。どこからどう見ても、休に汗を流す理な代の父親そのものだった。
「喉乾いたな。麦茶ある?」
「……蔵庫に入ってるわ」
私がい声で答えると、俊介はグラスに麦茶を注ぎ、ごくごくと音をててみ干した。そして、ふと私の顔を覗き込んできた。
「顔が悪いね。また痛かい?」
「……別に」
「嘘をつかなくていいよ。目が充血してる。美咲と何かあった?」
ほら、まただ。
観察し、理由を推測し、私に代わって「私の状態」を確定させようとする。
「何もないわ。ただ……考えていただけ」
「調のこと?」
俊介は気遣わしげに眉をの字にした。その表には、本当に滴の皮肉も含まれていない。
「奈緒。昨も言ったけれど、僕は君を責めてるんじゃないんだよ。歳という齢、美咲の学受験、更期の入り。いろんなストレスがなって、がパンクしそうなんだろう。僕にも配慮がりないところがあった。それは謝るよ」
「……謝る?」
「ああ。君にそこまでい詰めさせるに、僕がもっとく君のを言語化して、解消してあげるべきだった。
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だから、調にくのも止めない。あと、じっくりをかけて、自分の本当の気持ちを確かめておいで」
俊介は私の肩に、ぽんと優しくを置いた。
温かい、きなだった。かつてはその温もりに救われた気になっていた期もあった。だが今は、そのが私を面に縫い付ける杭のようにしかじられない。
「君がどれだけ回りしても、僕は待ってるからね」
そう言って、俊介はシャワーを浴びるために脱所へと消えていった。
残されたリビングで、私は自分の両を見つめた。
鳴り散らしてくれるなら、まだ戦いようがあった。物を投げ、暴言を吐く相なら、警察でも裁判所でも被害を訴えることができた。
けれど俊介は、誰よりも優しく、誰よりも理性に、私から「私の声」を奪い続けている。
あと。
調の席で、私は調員に何を話せばいいのだろう。
「夫が私の気持ちを勝にノートにいています」と訴えて、誰がこの底れない恐怖を理解してくれるのか。「優しいご主じゃないですか」「よく奥さんを見てくれていますね」と、あの調員たちもまた、俊介の側につのではないか。
美咲のめた声がの奥で蘇る。
『言ってるは、いつものお母さんじゃん』
私は唇をく噛んだ。
血のが広がる。この痛みだけが、俊介に翻訳されていない、私だけの本当の覚だった。