みかん小説
本棚

"十九年間、夫に翻訳されていた" 第2話

私ではない私の言葉

ページをめくる指が、微かに震えていた。

めくっても、めくっても、びっしりと並ぶい万の文字。すべてが第称、「私」でかれていた。

妊娠がわかったのこと。悪阻がひどくてトマトしか受け付けなかったのこと。娘の美咲が産まれた夜、病院の分娩台で交わしたい会話のこと。

事実関係は、背筋が寒くなるほど正確だった。

あの着ていたの、義母が持ってきた果物の銘柄、私が吐いた音の単語。俊介の異常な記憶力はっていたが、それが分、冊のノートに定着されている。

けれど、ページがむにつれて、決定な違が輪郭を持ち始めた。

事実のあとに続く「私の理」が、私の記憶とまったく違っているのだ。

、美咲が学にがったタイミングで、私がパートにたいと言いした期のページがあった。

『私としては、社会復帰したいと言ってはみたものの、本当はにて働く自信なんてない。ただ、専業主婦のまま老いていくのが惨めで、を張って俊介さんを困らせてしまった。彼に諭されて、自分の分相応さに気づくことができて、からした』

私は息を呑んだ。

違う。そんなことはっていない。あの、私は本気で働きたかった。面接の予約まで入れていたのに、俊介が「事の分担はどうする? 美咲の精神なケアは? 君が倒れたら誰が責任を取る?」

広告

と何晩もかけて滔々と説得してきたのだ。

最は私が根負けして、「……もういい」と呟いて諦めた。

それを、俊介はこのノートので「分相応さに気づいてした私」にき換えていた。

指を滑らせ、昨の付のページをく。

最の数だけが、真しい黒いインクでかれていた。

『奈緒は最、また緒が定になっている。過の満を引っ張りしては、婚という極端な言葉で僕を試そうとする癖がている。もし、彼女が用を差ししてきても、真に受けてはいけない。あれは助けを求めているだけのサインだ』

文字が、網膜に焼き付いてれなかった。

「……何なの、これ」

声が掠れていた。

「酷い。こんなの、私の気持ちじゃない。私がいつ、こんなことったの?」

俊介はため息をついた。傷ついたのは自分の方だと言わんばかりの、い、静かなため息だった。

「奈緒。君はいつもそうやって、喉元過ぎれば自分の言ったことを都よく忘れるんだ。あのだって、最には『もういい』って言って笑ったじゃないか。納得したからこその『もういい』だっただろう?」

「あれは諦めたの! あなたと話すのに疲れて、諦めただけ!」

「ほら、またになってる」

俊介は穏やかに首を振った。

「になったの言葉は、本じゃない。君自が番よく分かっているはずだ。

広告

だから僕は、こうして君の客観な真実を記録して、見失わないように守ってきたんだよ」

悪がない。それが、何よりも恐ろしかった。

この男は本気で、自分が妻を救い、理解し、正しく翻訳していると信じ切っている。

私はテーブルの婚届を引き寄せ、く握りしめた。の端がくしゃりと折れる。

「……来週の曜、よ」

「ん?」

「庭裁判所の、婚相談の予約を入れたわ。弁護士の初回相談も、その翌に取ってある」

俊介は眉ひとつかさなかった。

ただ、テーブルのの青いノートをおしそうに指先で撫で、静かに言った。

「いいよ。ってくるといい」

「……何?」

「っておいで。に話を聞いてもらえば、君も客観になれるだろうからね。専に話して、制度の面倒さをって、自分の活基盤のなさを実すれば――奈緒、君は気づくはずだよ」

俊介は鏡の奥の目を細め、完璧な優しさで言った。

「自分が本当は、婚なんて望んでいないんだってことにね」

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: