"十九年間、夫に翻訳されていた" 第1話
角の擦れた青いノート
曜の夜を回った頃、私は緑の枠線が入った用を、リビングのローテーブルに置いた。
分の結論だった。
婚届の私の欄は、夕方のうちにすべて埋めてある。署名も、旧姓に戻すチェックも、朱肉の捺印も、滲みひとつなくっていた。
向かいのソファで、夫の俊介は読みかけのビジネスから静かに線をげた。
鳴ることも、取り乱すこともない。俊介は昔からそういうだった。を荒らげるを「コストの無駄」と呼び、メーカーの管理職として部からも司からもい信頼を寄せられている。
「……奈緒」
俊介は用に指先すら触れず、ただ私の顔を見た。
「本気なのか、とかは聞かないよ。君がこれをくまでに、いろいろ考えたんだろうしね」
「そうね。本気よ」
「うん。ちょっと待ってて」
俊介は鏡の位置を直すと、音もなくちがり、廊の突き当たりにある斎へ向かった。
引き止められるでもなく、られるでもなく、ただ待たされる。この、庭内のあらゆる会話がこうやって俊介のペースに回収されてきた。私はえ切った指先を膝ので握りしめた。
数分、戻ってきた俊介のにあったのは、万でも印鑑でもなかった。
冊の、みのあるノートだった。
B5サイズの、ビニールクロス張りの表。
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はくすんだインクブルー。角の布が擦り切れて、芯のいボールが覗いている。かなり古いものだと目でわかった。
俊介はそれを、私の置いた婚届の真に、ことんと音をててねた。
「これ、先に読んでみて」
「……何これ」
「いいから。最初のページだけでいいよ」
促されるまま、私は表をめくった。
見返しをめくった枚目、太い万の文字で、私の名が記されていた。
『奈緒』
私の旧姓だった。そのに、付がある。
の、。
私たちがこの世田のマンションに引っ越してきた翌の付だった。
さらに線を落とした瞬、喉の奥がきゅっと締まった。
かれていたのは、俊介の字だった。几帳面で、がりのいペン習字の文字。けれど、文章の主語は違っていた。
『今から居での活が始まった。慣れないではたくさんあるけれど、俊介さんとで、温かい庭をちゃんと作っていきたい。わがままを言わず、彼を支えられる妻になりたい』
私は顔をげた。
「……これ、何?」
俊介は柔らかく微笑んでいた。りなど微もない、ひどく穏やかな、慈父のような差しだった。
「君の言葉だよ。忘れてた?」
「え?」
「あの、段ボールの片付けが終わったあと、君がベランダで言ったんだ。『だけど、ちゃんとやっていきたい』って。覚えてないかい?」
確かに、似たようなことを言った記憶はある。けれど、私はこんなには言っていない。記もつけていない。
「どうして俊介さんが、私の名で、私の言葉みたいにいてるの」
俊介は腕を組み、いつもの分かりやすい説をするの調で、静かに言った。
「君はだからね。のでっていることと、からる言葉がズレやすい。だから僕が、君の本当の気持ちを、君の目線になって理してあげてたんだよ。から、ずっと」
部の空気が、急激にえ込んでいくのがわかった。