"十年前消えた妹の耳たぶ" 第15話
帰らなかったという告
受話器を当てた母の元から、さな、しかしはっきりと震える息遣いが聞こえていた。
「……もしもし?」
母がもう度尋ねた。
話の向こうで、誰かが必に喉の奥から言葉を絞りす気配がした。
『……お母さん』
居の空気が、凍りついた。
母の体が、から爪先までに撃たれたように直した。
に持っていたエプロンの端が、ハラリと落ちた。
「……え?」
『お母さん……奈津美だよ……』
母の喉から、声にならないヒッという鳴が漏れた。
受話器を握る母のが、激しくガタガタと震え始めた。受話器のコードが、まるでき物のように捩れて波打つ。
「奈津美……? 奈津美なの……?」
母の目から、粒の涙がぼろぼろと溢れし、皺の刻まれた頬を濡らした。
「奈津美! あなた、奈津美なのね?! どこにいるの? 今までどこにってたの?!」
話の向こうで、奈津美が激しく泣き崩れる音が響いた。、ずっと抑え込んできた堤防が決壊したような、苦しく、激しい泣き声だった。
母は受話器を両で必に抱え込み、に膝をついた。
「きてるのね……? 怪はないの? ご飯はちゃんとべてるの? 病気はしてないの……?」
母のから次々と溢れたのは、りでも、み言でもなかった。
ただ、目のの娘が今この瞬に息をしているかどうかの確認だけだった。
『……うん。きてる……怪もしてない……ご飯も、ちゃんとべてる……』
奈津美の掠れた声が、受話器の隙から居に漏れ聞こえてくる。
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「よかった……ああ、本当によかった……」
母はに額を擦りつけるようにして、嗚咽を漏らした。
「神様、ありがとうございます……きててくれた……うちの奈津美がきててくれた……」
私は座卓のに座ったまま、その景をじっと見つめていた。
胸の奥が焼けるようにく、同に、驚くほど静な自分がいた。
母が泣き叫び、娘の無事をぶこのに、私の入る隙はどこにもなかった。私は母と妹のの緩衝材でも、通訳でもない。ただの、の観客だった。
やがて、母の涙がしだけ落ち着き、い沈黙が訪れた。
柱計の秒針が、酷にを刻んでいく。
母がゆっくりと顔をげた。涙で赤く腫れた瞳に、分の疑問と痛みが浮かびがっていた。
「……奈津美」
母の声が、微かにくなった。
「どうして……どうして、度も話をくれなかったの?」
話の向こうの泣き声が、ピタリと止まった。
「事件に巻き込まれたの? 誰かに脅されて、話もできなかったの? 帰ってこられない理由があったんでしょう?」
母は、救いを求めるように問いかけた。
娘が自分たちを捨てたのではないという、納得のいく理由を、何よりも欲していた。
私は息を呑み、受話器を見つめた。
奈津美。
あんたは何て答える。
また嘘をつくのか。体裁のいい言い訳を並べて、母の同を買うのか。それとも――。
受話器の向こうから、をすする音と、く息を吸い込む気配がした。
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『ううん』
奈津美の声は、震えていたが、驚くほどはっきりと響いた。
『事件じゃないの。誰かに捕まってたわけでもないの』
「……え?」
『ごめんなさい、お母さん。……帰れなくなったんじゃないの』
奈津美は、言ひとことを喉から引き裂くようにして言った。
『私が……帰りたくなくて、帰らなかったの』
母の顔から、すべての血の気が引いた。
「……帰りたく、なかった……?」
『あのが、息苦しかったの。お母さんも、お父さんも、お姉ちゃんも……みんな私のことを配してくれてたのは分かってた。でも、その配が、ずっと息が詰まるほど苦しかったの。……だから、逃げたの。全部放りして、勝にいなくなったの』
残酷なまでの、剥きしの告だった。
美しい理由はつもなかった。病気も、借も、暴力もなかった。ただ、くて勝なが、族のさに耐えかねて逃げしたという、も蓋もない真実だけがそこにあった。
母のが、半きになったまま固まった。
受話器を握るが刻みに震え、何かを言いかけようとしては、言葉にならずに消えた。
『本当にごめんなさい……今、お母さんの誕だから……それだけは、自分ので言わなきゃいけないとって……』
奈津美の声が、再び涙で途切れた。
『今、話を切ったら、もう度と私からかけない。お母さんが私を許せなくても、親子の縁を切るって言われても、全部受け止めるから……本当に、ごめんなさい……』
母は何も答えられなかった。
鳴ることも、泣き叫ぶことも、慰めることもできず、ただ茫然と受話器を握りしめていた。
奈津美は、話を切らなかった。
逃げす代わりに、母からの断罪を待つように、沈黙ので震えながら繋がっていた。
母が、助けを求めるように私を見た。
「真紀……」
母の目が揺れていた。「どうすればいいのか」「何と言えばいいのか」、いつも私に頼ってきたの顔だった。
私は、座卓ので母の目をまっすぐに見つめ返した。
そして、静かに首を横に振った。
何も言わなかった。助け舟もさず、受話器を奪い取ることもせず、ただ母自の答えを待った。
母は唇をぎゅっと噛み締め、再び受話器にをづけた。
「……奈津美」
母のからたのは、声ではなかった。
老いて、擦り切れた、しかし確かな母親の声だった。
「……来週、話しなさい」
話の向こうで、奈津美が息を呑んだ。
「曜の、同じでいいから。……あんたが何を考えてをたのか、これからのこと、ちゃんと聞きなさい。言い訳は聞かないけれど、話は聞きます」
母は涙を拭うこともせず、毅然と言った。
「あんたは私の娘なんだから。勝に終わらせるんじゃないよ」
母はそれだけ言うと、自らのでガチャリと受話器を置いた。
黒い受話器が台に収まると、居には完全な静寂が戻ってきた。
母はそのに崩れ落ち、座卓に両をついて、声を殺して泣き始めた。
私はちがり、台所へって温かいほうじ茶を淹れた。
湯呑みを母のに置く。
座卓ののショートケーキは、つとも、しだけ形を崩したままそこに残っていた。