"母がナイフで砕いた自分の名前" 第20話
母はその羊羹を、宝物のように両で胸に抱きしめ、額をに擦り付けて、声をげて泣いた。
子どもたちので。 たいマンションの廊で。 歳の母が、まるでまれたばかりの赤ん坊のように、閉じ込められていた魂を解き放つように、泣きじゃくっていた。
昇ってきたの朝が、廊の隅まで差し込み、私たちのをく伸ばしていた。 そのは、母の髪をに輝かせ、の首筋の傷痕を、静かに、優しく照らししていた。
*
それから、季節は巡った。
たいのみぞれはの桜へと変わり、湿ったが過ぎり、京のに乾いたのが吹き抜ける頃。
私は休の午、世田からを乗り継ぎ、母のマンションを訪れていた。
「お邪魔しまーす」
ドアをけると、玄関には甘い犀のりと、懐かしい麩の糊の匂いが漂っていた。 靴箱のには、父のさな写真てが、柔らかなを浴びて置かれている。 もう、伏せられてはいなかった。 写真のの父は、し照れくさそうに笑っていた。許しえたわけではない。ただ、というを共にきた事実として、そこに静かに佇んでいた。
リビングの引き戸をけると、温かなの差しが、部いっぱいに広がっていた。
かつて麻紐で縛られ、養テープで目張りをされていた、あの畳半の納戸。
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そのドアは、いまや完全に取り払われ、リビングと続きのるいアトリエへとまれ変わっていた。
窓辺に置かれた作業机に向かって、母が座っていた。
母は、老鏡をのにかけ、細いの篦を使って、器用にの端を折り返していた。 髪は染めるのをやめたらしく、綺麗なシルバーヘアが、午のを浴びて柔らかく波打っている。
「あ、真由。いらっしゃい」
母は振り返り、微笑んだ。 その笑顔は、古希の祝いの席で見せていたような、壊れ物を扱うような頼りない微笑みではなかった。 自分のでを耕し、自分のでを踏み締めているだけが持つ、く、落ち着いた笑顔だった。
「お母さん、調子はどう?」
「ええ。がね、昨子どもたちを連れてきてくれたのよ。の子が『おばあちゃん、このちょうだい』って言って、散らかして変だったわ」
母はでは文句を言いながらも、どこか嬉しそうに目を細めた。
は結局、あの振込を母に送り返し、母の活座を族全員で管理する形に落ち着いた。 の首の傷は、今でもそこにある。 だが、もう誰もその傷を隠そうとはしなかった。の息子が「パパの首、かっこいい」と言ったとき、母は初めて、その傷をおしそうに撫でることができたのだという。
「……何を作ってるの?」
私が覗き込むと、机のには、完成したばかりの体のさな形が置かれていた。
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さセンチほどの、さな女の子の形だった。 淡い茜のを纏い、に向かって駆けそうとするような、躍のある仕。 その顔には、いたずらっぽく笑う女の、命力に満ちた表が浮かんでいた。
「い……」
私はわず息を漏らした。 かつて母が作っていた、あのの籠もりすぎた、息が詰まるような凄絶な美しさとは違っていた。 肩の力が抜け、そのものの温もりと、作るの呼吸が、そのまま形になったような、温かい形だった。
私は形をそっとに取り、その製の台座を裏返した。
底面を見た瞬、私の胸の奥が、温かいもので満たされた。
そこには、文字はなかった。
『佐伯子』という夫の姓も。 『槙野子』という、かつて母を縛り、狂わせた旧姓も。
作者の名は、どこにも刻まれていなかった。
だが、あの凄惨なヤスリの傷跡は、もうどこにもなかった。 滑らかに磨きげられた、美しい肌。
その台座の、裏面のの隅。 誰も気づかないような、ほんの数ミリの余に——。
鉛で、極めて淡く、さな名もなき野のが輪だけ、落きのように描かれていた。
「それね」
母が、お茶を淹れながら、し照れくさそうに言った。
「杉本先がね、先、をくださったのよ。『展示会にさないか』って。岡の芸展で、昔の弟子たちの特集を組むから、子の形を飾りたいって」
「本当?! ……で、お母さん、なんて返事したの?」