"母がナイフで砕いた自分の名前" 第17話
父は従属を命じ、私は覚を命じた。 結局、誰も——夫も、義母も、そして娘である私ですら、あのを「子さん」というのとして、そのまま認めてなどいなかったのだ。
*
母のマンションに辿り着いたのは、夜を回った頃だった。
灯のがまばらに落ちる宅。階の302号の窓は、カーテンが引かれ、に沈んでいた。 私は階段をがり、え切ったコンクリートの廊を歩いた。
ドアベルは鳴らさなかった。 鍵も、もうポケットから取りさなかった。
私はドアの脇、たい壁に背を預け、そのまま膝を抱えてに座り込んだ。
底えする真の夜気。 コート越しに、コンクリートのたさが骨の髄まで染み渡ってくる。指先がかじかみ、吐く息が真っに夜空へ溶けていく。
私ののには、岡駅の老舗の菓子で買った、さな袋があった。 に包まれた、本の栗羊羹。
母が昔、私がまだ学だった頃に度だけ、「昔ね、お料がると、岡の舟町で栗の入った羊羹を切れだけ買ってべるのが、何よりの贅沢だったのよ」と、い目をして笑っていたのを、なぜか幹線の内でいしたのだ。 佐伯のでは、父の好む級なカステラやメロンばかりが仏壇に供えられ、母が自分のために甘いものを買う姿など、私は度も見たことがなかった。
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私は袋を抱きしめた。 こんなもので許されるはずがない。 だが、今の私にできることは、これを持って、ここで待つことだけだった。
くをるトラックの音。 たいが廊を吹き抜け、私の髪を揺らす。 の覚が麻痺し、体の芯が震え始めた。 それでも、私はちがらなかった。
私は、母が耐え忍んできた寒さに比べれば、この程度の夜のえ込みなど、何の罰にもならないことをっていたからだ。
*
空が墨から、茶けたの朝のへと移り変わる頃。
ギィ、と内側で鍵が回る乾いた音がした。
私の体がねがった。 固まった関節が鳴をげ、わず壁にをつく。
ガチャリ、とドアチェーンがされ、ゆっくりと鉄の扉がいた。
には、半透のゴミ袋。 すっぴんの、髪の混ざった髪を無造作に束ね、のカーディガンを羽織った母が、そこにっていた。
母は、ゴミ捨てへ向かおうと歩踏みし——そして、凍りついたようにを止めた。
廊の隅で、焼けのように赤くなった顔をして、震えながら蹲っている私を見ろしている。
母の顔から、瞬で表が抜け落ちた。 驚き、困惑、そしてい警戒。
「……何をしてるの」
母の声は、朝の気よりもたかった。
「いつから、そこにいたの」
私はちがろうとした。 だが、晩たいに座り続けていたは覚を失っており、膝がガクガクと震えて、ちがることができなかった。
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私は、そのまま——。
いつくばるようにして、両をたいコンクリートのについた。
「真由……?」
母がさく息を呑む音が聞こえた。
私は額を、すれすれまでげた。 座ではない。許しを乞うためのポーズですらなかった。ただ、自分の傲さと浅ましさに打ちのめされ、母の顔をまともに見げることすらできなかった。
「お母さん」
声が震えて、掠れた。喉の奥が焼けるようにい。
「ごめんなさい」
母は何も言わなかった。 ただ、ゴミ袋を握りしめるのビニールが、カサリと音をてた。
「私……岡にってきました」
母の元が、ピクリといた。
「杉本千代先に、会ってきました。のこと……全部、聞きました。の首の痕のこと。お母さんが、どれだけのいでを捨てたのか……全部、教えてもらいました」
沈黙が、廊を支配した。 朝のたいが、のあいだを吹き抜けていく。
「……そう」
母のから漏れたのは、の削ぎ落とされた、乾いた言だった。
「先に余計なことを喋らせたのね。……みっともない過を暴いて、それで満した? やっぱり私は、殺しの母親だったでしょう。あんたの言う通り、自分のがままで息子を殺しかけた、浅ましい女よ。さあ、気が済んだなら帰りなさい。もう度と——」
「違う!」
私は顔をげた。 涙が溢れし、え切った頬をく濡らした。