"母がナイフで砕いた自分の名前" 第8話
なぜ、あの激しい拒絶と憎悪の目で、自分の旧姓を睨みつけたのか。
らなければならない。 たとえ族全員から絶縁されようとも、あの傷跡の正体を確かめない限り、私は歩もへめない。
*
週が過ぎた。 そのあいだ、母からの連絡は切なかった。 私からのLINEは既読にすらならず、話をかけても「波の届かない所にあるか、源が入っていない」という無質なアナウンスが流れるだけだった。
兄は「しばらくをやさせろ」と言っていたが、私にはとてもそうはえなかった。 あの夜、ケーキのの名をメッタ刺しにした母の目。 あれはりではない。 自らのをこの世から削り消そうとする、破滅の目だった。
曜の朝、午半。 私は母のマンションの向かいにあるコインパーキングにを止め、息を潜めてエントランスを見張っていた。
初の朝の空気は肌を刺すようにたい。フロントガラスがく曇り、私は何度も袖でそれを拭い取った。
分。 エントランスの自ドアがき、柄ながてきた。
母だった。 のなダウンコートにを包み、には輪のついたさな買い物カートを引いている。 背は以よりも段とさく見え、取りは覚束ない。それでも、どこか切迫したような速で、駅へ続く坂をっていく。
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週末の朝だ。 引っ越しの荷造りをしていたとき、母が「曜の朝は、駅の広で元の野菜がくるらしいから」とさく呟いていたのを覚えていた。
私はシートベルトをし、をりた。
母が角を曲がり、完全に姿が見えなくなるのを待って、マンションの階段を駆けがる。 臓が喉からびしそうだった。 自分の母親のに忍び込むのに、まるで棒のように周囲を警戒している自分が浅ましかった。
302号の。 私はバッグから、本の属の鍵を取りした。
先週、母が内側からチェーンを掛けたのを見て、私は鍵のをいしたのだ。 世田のを処分する際、産から渡された居のスペアキーが、私の元に本だけ残っていた。母が鍵穴を取り替えていなければ、くはずだ。
鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す。 カチリ、と静かな応えがあった。
いた。
私は息を止め、音をてないようにドアノブを押しげた。 チェーンは掛かっていない。母がしたのだから当然だ。
私は滑り込むように玄関へ入り、静かに背のドアを閉めた。
「……お母さん」
さく呼んでみたが、返事はない。 部のは、シンと静まり返っていた。
玄関には、履き古されたスニーカーと、ゴミし用のサンダルがずつ。 靴箱のには、父の遺すら置かれていなかった。
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世田のであれほど派にしつらえられていた仏壇は、母の希望でさな簡易型の位牌入れに買い替えられ、それすらもリビングの隅の、目たない棚のに伏せるように置かれていた。
徹底な無国籍。 活の匂いがしない。 まるで、来週には誰にも気づかれずにちるの部だった。
取りは2DK。 のダイニングキッチンには、用のさな丸テーブルとパイプ子が脚。流し台には滴ひとつなく、拭き清められたい布巾が几帳面に干されている。
だが、部の空気がおかしい。
古い畳の匂いに混ざって、微かに漂ってくるものがあった。 の奥をくすぐる、酸を帯びた独特のり。 これは——麩の糊の匂いだ。
を漉き、貼りわせるときに使う、伝統な芸の糊。 学の頃、自由研究でのしおりを作ったときに嗅いだ、あの微かな匂いが、この密閉された空を満たしていた。
どこからだ?
私は奥の畳へをめた。 布団が几帳面に畳まれ、押し入れの襖はきっちりと閉まっている。ここには何もない。
もうつの部——畳半の。 母は引っ越しの際、「ここは納戸にするから、段ボールを放り込んでおいて」と言っていた部だ。
その部のドアのにったとき、私は異様な景に目を奪われた。
ドアノブに、太い麻紐が幾にも巻き付けられ、隣の柱のフックに固く結びつけられていた。
鍵のない内ドアを、力ずくでかないように固定するための、異様な目張り。