"母がナイフで砕いた自分の名前" 第6話
見ると、割れた鉢の破片で、差し指の腹を切っていた。 赤い血が、ぷつりと滲みる。
「痛っ……」
血を吸いながら、私はふと、倒れたケーキのに落ちていたものに目を留めた。
母が脱ぎ捨てていった、のちゃんちゃんこ。 そのから、さな袋が覗いていた。
母がいつも持ち歩いている、布製の提げバッグだ。逃げるように部をていった母は、これを忘れていってしまったらしい。
私は血をティッシュで拭い、その提げバッグを引き寄せた。 には、使い古された革の財布、健康保険証、ハンカチ、それから——。
さな、方形の平たい包みが入っていた。
文庫本ほどのきさのその包みは、丁寧にで包まれ、麻の紐で結ばれていた。 何だろう。今、誰かに渡すはずだった内祝いの品だろうか。
私は紐を解き、慎にの包みをいた。
から現れたのは、桐の板だった。 のひらに乗るほどの、い製の板。
その板を見た瞬、私の息が止まった。
それは、展示用の台座だった。 形のを固定するための、つのさな穴が穿たれている。 肌はしく、やすりがけされたばかりのように滑らかだった。経劣化で黄ばんでいたあの桐箱の形の台座とは、らかに違う。ごく最、作られたものだ。
そして——。
そのしい台座の裏面を見た瞬、私の背筋に、先ほど母が激昂した以の、烈な戦慄がった。
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台座の裏、本来なら作者の銘が記されるはずの隅。
そこには、文字はなかった。
代わりにあったのは、無数の、荒々しい傷跡だった。 粗い番のサンドペーパーか何かで、肌がえぐれるほど激しく擦りわされた跡。 の繊維が毛羽ち、ささくれち、まるでそこに刻まれていた「何か」を、親の仇のように削り落としたかのような、凄惨な摩擦痕。
指先でその傷跡をなぞると、ザラリとしたたい触が伝わってきた。 ただ削り落とすだけではない。そこには、激しい自己処罰のような、狂気じみた執が染み付いていた。
「……何、これ」
母は、最も作っていたのか? あの形を? 父がんでからの、こののあいだに?
だとしたら、なぜ。 なぜ、この台座の裏は、こんなにも残酷に削り取られているのか。
名をかなかったのではない。 度いた名を、削り取ったのか? それとも、最初から名が刻まれることすら許さないために、自らのでを傷つけたのか?
『誰が戻りたいなんて言ったのよ!』
母の鳴が、再び脳裏をよぎる。
母は、過を奪われて被害者として泣いていたのではなかった。 母は、今もなお——何かから逃げ続け、何かを恐れ、自分の名を自らので抹殺し続けているのだ。
スマホが、けたたましく震えた。 画面を見ると、からの着信だった。
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私は震える指で通話ボタンを押し、に当てた。
「……もしもし」
『おい、真由! お、今すぐ母さんのにけ!』
話の向こうで、が息を切らしながら叫んでいた。 を運転しているのか、激しい切り音が混ざっている。
「え……お母さん、のに乗ったんじゃないの?」
『乗るわけないだろ! ので追いついたのに、俺のを振り払ってタクシーに乗ってっちまったんだよ! 「にして」って、見たこともない顔で叫ばれて……先は世田の元のじゃなくて、しいマンションのはずだ。俺は今、環が混んでてけない。おの方がいはずだ、くけ!』
「待って、お母さん、なんて言ってたの?」
『るかよ! 全部おのせいだろ!』
の声が、スピーカーを破らんばかりに響く。
『おが余計なこと蒸し返したからだ! 母さんはな、あの名を捨てたかったんだよ! おがまれる、母さんがどれだけ……どれだけのいであの名を消したか、おは何もらねえくせに!』
「、ってるの!? お母さんがどうしてあんなに——」
『けばわかるだろ! くけよ、母さん、何かあったらどうするんだ!』
ブツッ、と方に通話が切れた。
元に残る子音を聞きながら、私はちがった。 が震えていた。 はっている。母が名を捨てた本当の理由を。 そしてそれは、私が誌を読んで勝に組みてた「かわいそうな被害者」
というっぽい物語とは、まったく違う獄だったのだ。