"母がナイフで砕いた自分の名前" 第2話
「今が何のか分かってんのか! 母さんの古希の祝いだぞ! 何発狂してんだよ、おかしくなったのか?!」
「おかしくなんかないよ」
私の声は、自分でも驚くほど平坦で、え切っていた。 私はナイフをテーブルに置くと、スーツのポケットから、あらかじめ用していた製菓用の黒いチョコペンを取りした。肌で温めておいた先端を、指先でねじり切る。
そして、削り取られて無残な空となったプレートの側に、震えるで、しかし画画、力くしい文字を絞りした。
『槙』 『野』
黒々としたインクのようなチョコレートで刻まれた、文字。
プレートの文字は、いまや完全にき換えられていた。
『祝 古希 槙野子お母さん 歳のお誕おめでとう』
「……まきの?」
が掠れた声で呟いた。りのに、困惑が混ざりっていく。
「誰だよ、それ……槙野? 親父の親戚か? 何なんだよこれ、何の悪ふざけだ真由!」
兄はらないのだ。 つの兄も、隣で怯えている義姉も、親戚の誰も。
「悪ふざけじゃない」
私はチョコペンを置き、母をまっすぐに見つめた。
「お母さんの、本当の名だよ。槙野子。お父さんと結婚する、お母さんが代のころ、ずっと名乗っていた名」
私は歩、母にづいた。 胸の奥からいものが込みげてきて、喉が詰まりそうになる。 これでいいはずだ。
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私はずっと、この瞬を待っていた。誰にも顧みられず、誰からも謝されず、ただ族のためにすり減らされてきた母に、母自のを取り戻してあげる。 これは娘である私からの、奪われ続けてきた尊厳の返還なのだ。
「お母さん」
私は母の顔を覗き込んだ。 「お誕おめでとう。もう、佐伯の妻じゃなくていいよ。今からは、槙野子としてきて」
母は、泣き崩れるだろうか。 それとも、驚きのあまり言葉を失って、私を抱きしめてくれるだろうか。 ずっとの奥底に押し込めてきた痛みを理解してくれたと、の呪縛から解き放たれたと、そう言ってくれるはずだ——。
だが。
母の顔から、すべての血の気が引いていた。
微笑みどころではなかった。驚きですら消しんでいた。 そこに浮かんでいたのは、剥きしの恐怖と、侮辱されたの浮かべる絶望な拒絶だった。
母の肌が、気に変していく。 見かれた瞳の奥で、黒い瞳孔が激しく揺れていた。唇は刻みに震え、のちゃんちゃんこので、細い肩が目に見えて張っている。
「……お母さん?」
私の伸ばしかけたが、空で止まった。 違というには、あまりにも鋭利な気が母の全からちっていた。
母の呼吸が、浅く、荒くなる。 ヒッ、と喉の奥で息を吸い込む音が聞こえた。
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母の指先が、テーブルのに敷かれた級な布を、爪が割れんばかりの力で握りしめる。布が鳴をげて引き攣れ、くにあったのグラスが倒れた。 氷とが、畳へとこぼれ落ちていく。だが、誰もそれを拭こうとはしなかった。
「……あなた」
母のから漏れたのは、く、濁った、今まで度も聞いたことのない声だった。 庭ので、父の嫌を損ねないよう、子どもたちをにさせないよう、常に半音くえられていた「お母さんの声」ではなかった。 の底から絞りされたような、酷な響き。
「あなた……どこで、その名をったの」
「え……」
「どこで、その名を嗅ぎ回ったのって聞いてるのよ!」
バンッ!
乾いた破裂音が、静まり返った個に轟いた。 母の両が、テーブルを激しく叩いていた。 料理の乗った鉢がね、塗り物の椀が転がり、汁のりが無惨に散る。
「きゃっ!」と優さんが鳴をげ、の子どもたちが怯えて母親の背にしがみついた。
あの、母が。 父がどれほど理尽な声を浴びせても、ただ黙ってをげていた母が。 所の寄りいでどれほど嫌を言われても、「私が至らないから」と笑って受け流していた母が。 ので、度たりとも声を荒らげたことのなかったあの佐伯子が、鬼のような形相で私を睨みつけていた。
その双眸には、涙の滴すら浮かんでいなかった。 ただ、燃え盛る憎悪のような炎が、ギラギラと宿っていた。
「誰に頼まれて、そんなことをしたの」