"青い痣と一冊の手帳" 第1話
朝。 の空はまだ青く濁り、夜の名残を引きずったたい空気が台所の元に澱んでいた。換気扇のい回転音だけが、誰も起きてこない静まり返ったのに定のリズムで響いている。 私――美咲(ひがしやま・みさき)は、いつものようにまな板のにち、包丁を握っていた。朝の噌汁のために松菜を刻み、隣のコンロではさな鍋の湯が微かに泡ち始めている。繰り返してきた、何つ変わることのない常の幕けのはずだった。
その瞬だった。
「――っ……!」
腹部の奥底を、凍てつく鉄の鉤爪で鷲掴みにされ、力任せに捻りげられたかのような凄まじい激痛が突き抜けた。 呼吸が喉元で凍りつく。の指先から急速に覚が抜け、握っていた包丁がまな板のに甲い属音をてて転がった。界の端がチカチカとく滅し、胃の底からせりがってくる激しい吐き気に襲われる。っていられない。腹部を両腕で抱え込むようにして、私はそのに膝から崩れ落ちた。
ひやりとしたフローリングの気が、の部着越しに膝へと伝わってくる。だが、たさを認識する余裕すら奪う激痛が、容赦なく波のように押し寄せていた。脂汗が額から噴きし、にぽたぽたと滴り落ちる。歯をいしばっても、喉の奥から「あ……、う……」
広告
と途切れ途途切れの呻きが漏れしてしまう。体を丸め、に倒れ込んで横たわるのが精杯だった。
タッタッタッ、と廊を慌ただしくる音が響いた。
「母さん!? おい、丈夫か!?」
び込んできたのは、になる息子の(かずゆき)だった。 乱れた寝癖のまま、まだ制にも着替えていない姿で、に倒れ伏す私のそばへと滑り込むように駆け寄ってくる。普段は顔をわせても線を逸らし、何か言えば舌打ちを返すような反抗期の真っ只にいる息子だ。だが、に突っ伏して震える私の姿を見ろすその瞳には、今までに見たこともないほどの激しい揺と、本物の配のが宿っていた。は膝をつき、震えるで私の肩に触れようとしては、どう触れていいのか分からずに空でを泳がせている。
その騒ぎとの叫び声を聞きつけたのだろう。廊の奥から、ペタペタと気怠そうにスリッパを引きずる音がづいてきた。 現れたのは夫の(ゆきひと)だった。パジャマの胸元をだらしなく寛げ、眠たげに片目を擦りながら台所の入りにち止まる。そして、に倒れ込む私と、それを取り囲むように狼狽える息子の姿を、まるで汚れたゴミでも見るかのような淡な差しで見ろした。
は舌先でさくチッと音を鳴らし、わざとらしく壁の掛け計へ線をらせた。
広告
「おいおい、朝っぱらから何やってんだよ。……もうすぐ病院の診察だろうが。どうせ診てもらうなら、そのになってから自分でけばいいだろ。俺はこれから仕事なんだよ。無駄な騒ぎ起こすな」
計と私を交互にチラチラと見やりながら、は億劫そうに吐き捨てた。 その声には、妻がで苦悶していることに対する気遣いなど微も含まれていなかった。あるのは、自分の朝のルーティンや勤の予定を乱されることへの純粋な苛ちだけだ。 私はにをつき、脂汗で滑る掌に力を込めてなんとか体を起こそうと試みた。だが、腹部を貫く激痛はさらに鋭さを増し、腰からの力が完全に抜けてしまっている。指先がピキピキと痙攣し、に突っ伏したままをげることすら叶わない。
がちがり、父親を鋭く見据えた。
「父さん、救急呼ぼう! 呼ばなきゃダメだろ! 母さん、顔が真っ青だし、息だって苦しそうじゃないか!」 「ハッ、げさなんだよ」
は息子の必な訴えをでせせら笑い、腕を組んでややかに言い放った。
「どうせ構ってほしくてげさに演技してるだけだろ。いつもの被害者面だ。そうやって周りの気を引こうとする魂胆が見え見えなんだよ」
吐き捨てられた言葉の刃に、私のは凍りつく。こんな理尽な暴言を浴びせられるのは、今に始まったことではない。