"一度も抱かれなかった娘" 第19話
あのハンカチだけを、さなのに握りしめて。
では、夕が急速に濃くなり始めていた。 くで、を告げる防災無線のチャイムが、しげに鳴り響いていた。
夕が、急速にの輪郭を塗りつぶしていた。
半きになった玄関のドアから、ぬるいのがヒュウと音をてて吹き込んでくる。 たたきのに、咲良のピンクのスニーカーはなかった。 散らばった通園リュックの底、あの拙い刺繍が施されたガーゼハンカチだけが、ぽっかりと消えていた。
「咲良……!」
私は鞄をに投げ捨て、アパートの階段を転がるように駆けりた。 臓が破裂しそうなほど激しく肋骨を叩いている。 歳の子どものだ。歩き始めてから、せいぜい分か分。くへけるはずがない。 だが、ここは夕暮れの宅だ。には帰宅を急ぐが列をなし、し歩けば見通しの悪い交差点や、暗い用がある。
もし、にねられたら。 もし、を滑らせてに落ちたら。 もし——度と、あのさな体に触れることができなくなったら。
「咲良! 咲良!」
喉が引き裂けそうな声で叫びながら、私は宅のをがむしゃらにった。 すれ違う仕事帰りのサラリーマンや、犬の散歩をする老が、血相を変えて叫ぶ私を審そうに振り返る。 そんな線を気にする余裕など、欠片もなかった。
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界の端が、恐怖でく滅していた。 の記憶が、濁流のように脳裏を逆流してくる。
あの、たいのる夜。 病院のいので、全の力を振り絞って私に縋り付いてきた茜の姿。 財布も、分証も、靴すらも奪われ、が子のいる児への扉を閉ざされたあの女は、今の咲良と同じように、絶望のでのへびしたのだ。
あの、私はあいつを追わなかった。 「勝にてったのだから自業自得だ」と笑し、の効いた病でひとり、自分の自尊を守ることだけを考えていた。 守るべきものを理尽に奪われ、暗のをきりで彷徨うの恐怖を、私は像しようとすらしなかったのだ。
その報いが、今、歳の娘の姿を借りて私にりかかっている。
「頼む……頼むから無事でいてくれ……!」
私は涙で歪む界をの甲で乱暴に拭いながら、交差点を曲がった。 保育園への通園。いつもでを繋いで歩く歩。 スーパーの、自販売の並ぶ角、咲良がいつもち止まって覗き込む野良猫のいる。 どこにも、ピンクのさなは見当たらない。
防災政無線のスピーカーから流れる、夕方半のメロディが終わろうとしていた。 灯がひとつ、またひとつと青く灯り始める。 夜が来る。完全にが落ちてしまえば、歳の子どもの姿を見つけるのは絶望になる。
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警察に話すべきか。 震えるでポケットからスマートフォンを取りしかけた、ふと、昨夜の咲良の姿が脳裏をよぎった。
——お呂の湯の縁に顎を乗せ、揺れるお湯をじっと見つめていた横顔。 ——「ママって、どんなお顔だったの?」と暗ので呟いた、震える声。
咲良は、どこへこうとしているのか。 あてどもなく彷徨っているのではない。歳の娘が、あのハンカチを握りしめてをびしたのだ。 きたい所があるはずだ。 だが、咲良は母親の顔も、母親がどこにいるかもらない。 咲良にとって、世界ので「できる所」「誰かが抱きしめてくれる所」とは、体どこなのか。
ハッとして、を止めた。
アパートから歩いて分ほどの所にある、児童公園。 背のい公孫のに囲まれた、普段は所の子どもたちで賑わうさな公園だ。 休の午、私が疲れてベンチでうとうとしている、咲良が何でも滑り台を滑り、砂でを作っていた所。 そして、咲良が転んで膝を擦りむいた、いつも私が抱きげて涙を拭ってやった所だった。
私は踵を返し、を全力で逆した。 肺が焼けつくようにい。靴擦れを起こした踵から鈍い痛みがるが、を止めることはできなかった。
公園を囲む垣が見えてきた。 灯のが届きにくい、暗い園内。
子どもたちの笑い声はとっくに消え、砂のに落ちたブランコが、夕に吹かれてギィ、ギィと寂しげな軋み音をてていた。