"母の保険金3,000万円、夫は「もう諦めろ」と言った" 第1話
窓の番号呼びし音が、く無質な子音となって吹き抜けのロビーに響き渡っていた。
浦麻紀(みうら・まき、42歳)は、の待ちいソファの端にく腰をろしたまま、膝のに置いた黒い革のハンドバッグを両で固く抱きしめていた。周囲では、度の続きに追われるサラリーマンや、の引きしに来た齢者たちが忙しそうにき交い、常のざわめきが充満している。
しかし、麻紀の覚だけは、その世界から分いガラス越しに隔絶されているかのようだった。
バッグのファスナーを指先で数センチだけけ、からいビニールカバーのついた通帳を取りす。先ほど窓の械で記帳を済ませたばかりの面は、まだわずかに温もりを帯びているようにもえたが、そこに黒々と印字された数字列は、氷のように徹だった。
【差引残 30,000,000】
千万円。
普通預の残欄に並ぶその桁れな数字を見つめても、のには嬉しいというなど滴も湧いてこなかった。世般の物差しで測れば、それは将来のを払拭し、慎ましく暮らすにとってはきな盾となるに違いない。
だが、麻紀にとってこの数字は、母・文子(ふみこ、享68)の命そのものと引き換えに振り込まれた無質な代償に過ぎなかった。
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「お母さん……」
唇のから漏れた呟きは、誰のにも届かずに消えた。
もし叶うことなら、今すぐにこの千万円の全額を窓に突き返して、母の命を買い戻したい。母の温かいをもう度握り、のない世話をしながら、でスーパーへ買い物にきたい。そんな叶うはずもない子供じみた願いばかりが、胸の奥で渦を巻いては消えていく。
麻紀は震えるで通帳を閉じ、バッグの底くへと押し込んだ。
母が息を引き取ったのは、今のの初めのことだった。の桜が満を迎え、しい季節の訪れに誰もが浮きっていた頃、麻紀の世界からは彩が完全に抜け落ちた。麻紀にとってのそののは、ただ母の呼吸が穏やかに、そして逆に止した残酷な季節として記憶に刻まれていた。
母は、方都のさな造平でで暮らしていた。父をくに病気でくし、女つで麻紀を育てげてくれただった。
その母に末期のすい臓がんが見つかったのは、昨ののことだった。発見されたにはすでに術の施しようがなく、抗がん剤による延命治療しかは残されていなかった。
それからの半、麻紀は自分の庭を守りながら、片半かかる母の入院先へ毎通い詰めた。朝く起きて夫の朝を作り、洗濯物を干し終えるとすぐににび乗り、病へ向かう。
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夜遅くに自宅へ戻り、のように眠る々だった。
もも擦り切れるような活だったが、病のベッドのでにに細くなっていく母のを握っているだけが、麻紀にとっての救いでもあった。
母はいだった。激しい痛みに襲われているはずのでも、麻紀のでは決して音を吐かず、「麻紀、あんまり無理しちゃ駄目だよ。幸介さんに迷惑をかけていないかい?」と、常に娘の庭のことばかりを案じていた。
くなる週、自らの期を正確に悟った母は、酸素マスクを自らしだけずらし、掠れた声で麻紀に言った。
『麻紀……命保険、ちゃんと続きしてあるからね。お母さんがんでも、麻紀に遺してあげられる盾ができて……本当によかったよ』
麻紀は母の細いを両で包み込み、ボロボロと涙を流しながら首を振った。
『そんなものいらないよ、お母さん。おなんて円もいらないから、きていてよ……。また緒に桜を見にこうよ』
母はそれには答えず、ただ穏やかに微笑みながら、麻紀のを最の力を振り絞ってぎゅっと握り返してくれた。
それが、母と交わした最の、血の通った会話だった。
母がにわたって自らの活を切り詰め、コツコツと掛けを払い続けてきた保険。受取は、娘である麻紀だった。
「これは、母さんの命そのものよ。絶対に、くだらないことに使ったり、誰かに奪われたりしてはいけない」