"七歳の女の子が握りしめた富士山の木札" 第8話
言いたいことを言えない子供が1度だけこぼした言葉だ。だから聞き流せなかった。同なんかじゃない。俺はあの声を自分の喉の奥でも聞いたのだ。
「……」
返事がない。俺は物置きから毛布をして肩にかけた。は眉を寄せて、それからまた眠った。
「おじいさんだ……」
まだいるよ。寝言だったらしい。返事をした俺の方が抜けだった。
俺は同でこの子に湯を使わせているのだとずっとっていた。違った。俺はこの子の声を借りて、自分の言えなかった言葉を毎晩聞いていた。それは同よりたちが悪いのかもしれない。
この子のに何があるのか確かめなければいけない。役所に話をするのでも、学に伝えるのでもなく、俺が自分のでって確かめよう。そう決めた。
だが決めてもなかなか実できなかった。翌は釜の掃除で1が終わった。次のは寒波が襲ったせいでの元栓が凍って朝からをり回った。その次のは常連がひっきりなしに来し、番台をれられなかった。
そのもは毎晩来た。札を並べて、牛乳の瓶を詰めて、栓を抜いて、坂をりて帰っていく。何も変わらなかった。変わらないものだと俺はっていた。
数、は来なかった。845分になっても入りに姿を見せなかった。閉の9を過ぎても誰も入ってこない。
広告
俺は閉の札をすのを30分遅らせて、番台で帳面をつけた。同じを2度描いていた。
何かあったのか? 邪かもしれない。友達のに泊まっているのかもしれない。で嫌いなものがたのかもしれない。理由はいくらでもいつく。いつくたびに、どれも当たっていない気がした。そういながら、釜のを落とした。
しかし、はその翌も来なかった。
翌の朝、箱の札を並べようとして、俺は自分のが遅いことに気づいた。1番から順に向きを揃えて差していく。まだ30枚しか並べていない。ならもうとっくに終わっている。
そういえばが伝うは、札の向きなんて気にしたこともなかった。蔵庫をけた。牛乳の瓶のラベルがバラバラに向いたまま並んでいた。はこれが普通だった。今はどこか散らかって見える。棚の1番の段には、富士の札が1枚だけ入ったままだ。専用の札だ。そのも今は取りに来ない。
夕方、常連の女性が湯がりの子に座って脱所を見回した。
「ちゃん、今は来ないんですか?」
「そうみたいですね。昨もいなかったでしょう?」
「邪でも引いたんじゃないですかね」
「おはごじなの?」
「坂のだとは聞いてます」
「様子を見にってあげたらどうかしら?」
「うちはただの湯ですから」
広告
俺は正面をめくるふりをした。自分の声がのもののように聞こえた。女性はしばらく入りの方を見て、それから帰っていった。
9にのれんをろした。浴の湯はまだ張ってある。俺はを沈めた。42度だった。ずれていない。ずれるはずもない。この温度を毎守ることが俺の仕事のほとんど全部だった。誰も入らない湯が42度のまま、静かに湯気をあげている。それをいこと見ていた。このを1番ぶはずのが来ていない。
も来なかったらどうする? そう考えている自分に俺は驚いた。のこと、のことを俺は今まで考えたことがない。客が来なければ来ないで、も同じにを入れる。それがこのだった。
1番呂の老もそのは何か言いたそうだった。
「3代目」
「はい」
「湯が並んどらん」
「並べたんですけどね」
「並べ方が違う」
それだけ言って老は帰っていった。あのの目にも、このは欠けて見えるらしい。
俺はあの子のをっている。坂のの、の廊の球が切れたアパートだ。部の所も分かっている。分かっているのに、俺はすぐにけなかった。って何というのか。「伝いに来ないのはなぜだ」と聞くのか。も取っていないのに、こちらから尋ねる理由が俺にはない。理由がないことを俺は理由にした。
湯を1タダにしたところでこのは潰れない。あの子が来なくても、も客は数来る。何も変わらない。変わらないことがこんなに落ち着かないとはわなかった。