"七歳の女の子が握りしめた富士山の木札" 第1話
「お嬢様、見つけました」
夕方の商だった。黒いスーツの男が、うちの銭湯からてきた女の子ので片膝をついている。7つの子供と目線をわせるように、男は声を震わせていた。
俺はの入りにかかっているのれんを持ったまま、けなくなった。毎晩、ボロボロのでうちの銭湯に来ていたあの子にこんなが来るとは、ってもいなかった。
俺の名は宮、35歳。柳坂商のはれで替え……いや、「楓(かえで)湯」という古い銭湯をやっている。祖父が建てたで、俺は3代目になる。3代目。
今も暑いのか? 42度だよ。いつも通りだ。
湯の温度はの甲で測る。祖父から父へ、父から俺へと渡ってきたやり方だ。42度から1度もずらしたことがない。季節ごとに湯へ何かを入れるのも、うちの決まりだ。
菖蒲(しょうぶ)、柚子(ゆず)、桃の葉、季節が変わるたびに湯の匂いも変わる。これも祖父の代からずっと続けてきたことだ。
番台も釜焚きも掃除も、全部俺1でやっている。の名は、銭湯の庭にある楓のから取った。祖父がを建てたに植えたで、今では根よりい。になると真っ赤になって、通りの端からでもすぐに分かる。
だが、昔と比べると客は減る方だった。町の再発がんで、呂のないなんてもうほとんどない。常連は配ばかりで、番台の数字は毎ギリギリだ。
広告
は借で、宮ののものは建物だけになる。
「宮、あんたは昔から商売がだな」
そうかもな。言い返したことは1度もない。
男湯の壁には富士のペンキ絵がある。祖父がきているうちに1度も塗り直せなかったから、すっかりあせていた。残りといえば、それくらいのものだ。
1の夜はえる。そのも客は数えるほどで、閉の15分には脱所に誰もいなくなっていた。俺はのれんをろそうとへた。
のに、女の子がっていた。学にがったばかりくらいの背たけで、着がい。
「どうした? 1か?」
あの女の子は握っていたをゆっくりいた。のひらに10円玉と5円玉が乗っていて、汗でっている。
「これしかないんです」
入浴料にはくりない。周囲を見渡しても、親らしい物は見当たらない。こんなに子供が1でいるのも変だ。だが女の子は何か事があるかのように、元を見たままだった。
俺はのれんを持ったまま、しばらくそののひらを見ていた。追い返す言葉がてこなかった。
「今はうちの『試し湯』のだ」
——試し湯? 湯の具を見るだからはいらない。入っていけ。
嘘だった。そんなはうちにない。女の子は銭を握りしめ、それからさく頷いた。
箱ので、女の子がかなくなった。昔ながらの銭湯にある、昔ながらの札の使い方が分からないのだ。
広告
女の子の靴を入れたに、俺は札を抜いて渡した。
「これ、返すんですか?」
「がるに返せばいい。鹸は洗に置いてある。好きに使っていいぞ」
「タオルは……持ってきていないのか?」
「忘れました」
俺は棚から貸し用のタオルを1枚した。端がほほけてもう表にせなくなったやつだ。
「これやる。返さなくていい」
「いいんですか?」
「置き所に困ってるんだよ」
嘘ばかり増えていく。女の子はタオルを胸に抱えて、女湯のれんをくぐった。その背を見送って、俺は番台に戻った。
なかなかてこない。男と女を仕切る壁は、の方がいている。姿は見えないが、声だけはき来する作りだ。すでに客もいないため、俺は男湯の入りから声をかけた。
「おい、のぼせてないか?」
「丈夫です」
「湯加減はどうだ?」
「い」
「すぎるか? をすか?」
「ううん、このままがいい」
「無理してないか?」
「してない。の先まであったかい」
返ってきた声が妙にるかった。湯のでねるみたいに響いて、さっきののひらのこととは同じにえない。俺はそのるさの方に引っかかった。
30分く経って、女の子が脱所にてきた。俺は番台の正面から顔をげ、女の子が着ているものを見てけなくなった。袖のがほほけていて、裾も傷んでいる。換えがないものを着続けいるであろうだ。
俺は何も言わずに蔵庫をけて、コーヒー牛乳を1本した。