"婚姻届の帰り道、残高は1億円だった" 第9話
帰り、私は古い軽トラックの助席に揺られていた。そのだった。スマホがく震えた。アプリからの入のおらせ。何気なくいた細の画面を私は度見た。摘の欄には活費とだけ記されていた。そのすぐの額欄、見慣れない数の0が並んでいる。その額は1億円。
臓がきくなると同に隣を見た。ハンドルを握っているのは褪せた作業着を着た私の夫だ。荒れて節くれったが、古い軽トラックのハンドルをゆっくりと回している。潰れかけの酒蔵で1黙々と酒を作っている。そう聞いていた。そういう男だと信じて、私はこのの隣に座ったはずだった。
「あなた、何者なの?」 自分でも驚くほど声が枯れていた。夫はを向いたまま何も答えはしなかった。
けれどしばらくった、彼は静かにを側へ止めた。エンジンを切ると、の静けさが内に満ちてきた。孝介さんはフロントガラスの向こうの暮れかけた並みを見つめたまま、ぽつりとをいた。 「驚かせてすまなかった。全部話す」
そして彼は語り始めた。 「俺は昔、の酒蔵にいた。腕を見込まれてな。だがあそこの作りは利益が全てだった。米ももも何もかも勘定でしか見ない。俺にはそれがならなかった」 く、はっきりとした声だった。
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「32のにそこをびした。このへ戻って、たった1で酒を作り直すと決めた。それから10だ」 「10って……」 「ああ、今の俺の酒は『現(げん)』という名で世界にている。『虹ホールディングス』、その創業者が俺だ」
私は言葉を失った。『現』。その名くらいは酒をまない私でも聞いたことがあった。世界のなだたる品評会で最賞を取る、の本酒。 「じゃあこの酒蔵は、潰れかけなんかじゃ……」 「潰れかけているように見せていただけだ。玲子からを借りていたのも親父の。あのはんでも俺のだけは受け取ろうとしなかった」
が追いつかなかった。1億円という額でさえ現実がないというのに、目ののこの作業着の男がその正体だったというのか。 「1つ聞いていい? あなたの会社はその、どれくらいの……?」 私が恐る恐る尋ねると、孝介さんはし困ったように目を落とした。 「会社の評価額で言えば、今は50億をし超えたくらいだ」
50億――その数字はもう私の理解のにあった。元に届いた1億円がくえるほどの桁違いのスケール。このはそういう世界に本当はきているなのだ。 「どうして、どうしてそんな事なことを今まで黙っていたんですか?」 震える声で私は問うた。責めたいわけではない。ただりたかった。孝介さんはしばらく黙った、まっすぐに私を見た。
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「肩きやでがを値踏みする世界に、俺は底嫌気がさしていた。だからへ戻ったんだ。ここでなら、ただの酒蔵の男でいられる」 彼の声がしだけ揺れた。 「あんたには瀬孝介という肩きももない、ただの1の男を見て欲しかった。それだけなんだ。騙すつもりはなかった。本当だ」
その言葉に嘘はじられなかった。むしろ痛いほどまっすぐだった。 「じゃあ、なぜ……なぜ私だったんですか? 私みたいな何も持たない女を」 すると孝介さんは初めてほんのしだけ元を緩めた。 「にっただろう。酒は嘘をつかないこと。ごまかした作りは必ずにる。も同じだ」
彼は私のをそのきな荒れったでそっと包んだ。 「あんたは誰も見ていないところで辛いにを差し伸べる。見返りなんか端から考えちゃいない。あんたのき方には粒滴のごまかしもない。俺はそういうときていきたかったんだ」
その言はまっすぐに私の胸の1番いところへ届いた。夜勤ばかりでげないと捨てられた。財産目当てだろうと侮辱された。誠実にきても報われないと何度もってきた。その私の半の全てを、このは今丸ごと肯定してくれた。
涙が止まらなかった。 「おなんてどうでもいいんです」 涙を拭いながら、やっと私は声を絞りした。
「1億でも50億でも……。私が隣にいたのは、その酒蔵の男の方です。あなたがずっと隠したかった、ただのあなたの方なんです」